2012年1月13日金曜日


『安岡正篤 易経講座』に学ぶ(17)(20120113)

 “易は万物の変化を捉える

 人生の真理・法則を探求する易学

 前回は、易というものは非常に誤解が多い、あるいは全然無理解さえ少なくない。しかもこれほど日中両国に亘(わた)って民族的普遍的学問・思想もまた他に例をみない、ということを申しておきました。

 実際、儒教をやっても、仏教をやっても、道教をやっても、神道をやっても、東洋の教学を少し本格的にやろうと思えば、そうしても易をやらなければ奥へ入れない。そしてまた少し東洋的精神の人が人生の体験を積んで、物を考えられるようになると必ず易を学びたくなる。

 しかも通俗的には誤解や無理解があって、甚(はなは)だ入り難く達しがたい。そこで易・算木・筮竹(ぜいちく)をいじって人の運命等を軽々しく判断する大道場・売ト易等の考えがとれない。易を学ぼうと思うものは先(ま)ずこの無理解を綺麗(きれい)に払拭(ふっしょく)せねばならない。

 易というものは、宇宙・人生の真髄・本質を把握したものであって、即ち万物は変わるのであります。これは宇宙・人生の本質であるが、その変わる中に自ずから変わらざる法則がある。その法則を把握して、これに従って耐えていく。このゆえに易というのであります。

 その意味においては、精神的な学問よりもむしろ物質的な学問、自然科学のほうが一歩先んじて易の妙旨(みょうし)をだんだん闡明にしている。・・(中略)・・易でいうならば太極であります。ミクロコスミック、即ち極微の世界において太極が発見されようとしている。マクロコスミック、即ち天文学的研究では未だ太極までには至らないようであります。・・(中略)・・易学は有史以来の大発達をしているといえる。

 しかし、精神の世界は遅々として進んではいない。易学はそういう量(はか)るべからざる理法を含んでいる。非常に意味の深い学問である。”(以上、『安岡正篤 易経講座』より引用。)

 今の時代は、学問が非常に多くの専門に分かれており、しかもそれぞれにおいて余りも奥が深い。今の時代の学問はそのようであるから、一般常識程度の学問を身につけようと思えば、広く浅く学ぶしかない。しかも広く浅く学んでも日常の会話に役立つ程度である。

 一日24時間はだれにも同じであるから、平均的人間が一日で学びとるものはほんの僅かでしかない。書店にはいろいろな本が並んでおり、情報が氾濫している。そういう状況の中で自分に必要な情報を一定の時間内に得るには相当の知恵と工夫が必要である。それも経験を重ね、よく訓練されないと他人よりも多く学びとることはできない。

 易はあらゆる学問の中で最も本質的な学問ではないかと思う。その学問はある程度年を重ね、経験を積んでいないと興味も湧かない学問であると思う。

しかし江戸時代の儒者・詩人・歴史家だった頼山陽は13歳の時『述懐』と題して「十有三春秋 逝く者は已(すで)に水の如し 天地始終無く 人生生死有り 安(いずくん)ぞ古人に類して 千載青史に列するを得ん」と詠っている。13歳の少年の時に人生を達観しているようである。

易学は政治・経済・防衛全般に関わる根本の学問ではないかと思う。教育環境が良ければ少年時代に易学に取り組むことができるのではないだろうか。       (続く)