2012年1月28日土曜日


写真立ての中の母上に「お母さん」と呼びかける (20120128)

 男の書斎は広さ7.5㎡ぐらい、幅90センチの小ぶりの畳で換算すると4.5畳である。ここに机、書棚、プリンターなどコンピュータ周辺機器収納用ラックなど置いてあるから狭い。それでもわしにとって十分な広さである。夏用の冷房はないが冬用の暖房はある。

 今パソコンのキーボードを叩きながら目を右にやると男が10歳のとき乳がんで死んだ母上の写真立てが見える。この写真立ては確か男が勤めていた会社のOB会か何のとき貰ったものである。枠はステンレスにしてはぴかぴか光っていて模様など飾りはなくプラチナのように見える。男はこの写真立てに入れてある母上に向かって「お母さん」と呼びかける。母上は33歳で死んだが、写真の母上はわしが小学校に上がる前後だと思うので、30歳か31歳のときである。実はこの写真はわしがパソコンを使って拡大したもので、元の写真はこの4分の1ぐらいの大きさである。

 この母上が生きておれば98になるが、75歳にもなろうとする一人の老人が自分を生んで育ててくれた若い姿の母上の写真に向かって「お母さん」と呼ぶ、その気持ちは他人に分かるものではないだろう。男にとって写真立ての中の母上はとても身近で、何でも相談でき、話しかけることができる存在である。生母であるから言葉では表現できない深い絆がある。わしのそのような気持ちを70歳の時白血病で死んだ親父は墓場の陰から笑って見ているか、それともやきもちを焼いているか、多分その両方であろう。

 男が生母をそのように思うように、男の息子らは自分の生母である自分の女房を心から愛し、いたわっている。彼らが出張で上京のたびに時間を割いて男も一緒に何処かで食事をしたり、時には男の家に泊まったりしている。自分の乳をふくませ、畳の上に投げ出した膝の上に載せて、眼と眼を合わせながら両手を引っ張って我が子に語りかけていた女房は、そのころまだ20代の若さであった。母と特に男の子との間の絆はとても深いものがある。

 戦争や大災害はそういった母子の絆を無理やり断ち切ってしまう。こんな悲しいことはあろうか。わしはホームヘルプを行うあるNOPの代表をしていたとき、自分自身もヘルパーの講習を受けた。そのとき実習の訪問先の老婆が語ってくれた話は忘れられない。その方はもう他界されたと思う。その方は、横浜がアメリカ軍による空襲を受けたとき一面焼け野原になって自分の娘が焼け死んだ話をしてくれた。黒焦げになった遺体の一つが自分の娘と特徴が良く似ていたので自分の娘だと思っていた。ところが後で自分の娘でないことが分かった。自分の娘の遺体はとうとう見つからずじまいであったという。

 街に置いた老婆が立ち話をしている。苦労話である。表情こそ何もなかったように見えるが、何十年も前、まだ若かったころ人知れぬ苦労があったに違いない。人は老い、この世を去ってゆく。わしもそう遠くない時期にこの世を去る。それが人生というものである。

年を重ねれば、それに応じてその年相応の人格にならねばならぬ。だが、若いときのような純粋な気持ちを失ってはならぬ。また体力は落ちても気力まで失ってはならぬ。最後の最期まで一生懸命に生き、死ぬるときは一所懸命に死ぬ。そうでなくてはならぬ。