2012年1月5日木曜日


『安岡正篤 易経講座』に学ぶ(9)(20120105)

 “道を学ぶということは

 そしてこの無限の創造文化を、我々の感覚するところの天というものをもって象徴したように、造化の行動性、実践性を象徴して道というのであります。

 何人も道によらずんば進むことはできない。そこで天の造化は即ち道であります。天は天命、天道であります。我々が道を学ぶということは、天に随って実践するということであります。

 天はその数というものを含んでいて、人間が、人間の知性がこの数を研究することによって発展するのが理(ことわり)であります。種々の因果の関係、その法則である。

 だから天は数であるから、その内に理を含んでいる。即ち天は天の理であると同時に、それは行動性実践性のものであるから天道であります。実践することのできる真理、これを道理というのであります。数からいえば数理であります。

 易学の目的

 このように展開していくのが易であるから、世間一般のいわゆる宿命なんかを研究するものでは決してないので、無限の造化の理法に棹(さお)さして無限に自己を創造変化してゆく。これを深く我々の理知を以て諦観(ていかん)し、これを勇敢に我々の実践行動にうつして伯玉のように幾歳になってもその非を知ってそれだけ化していく。これが易の本体、易学・易理の本体で、そのために易を学ぶのであります。

 易を学ばんとするものは先ずこれだけのことはよく知っておかなければならない。知るというのは自分の頭だけで知るのではなくて、自分の生命で、自分の身体で、覚悟しなければ易を学んでも一片の知的興味、知的遊戯にすぎない。”(以上、『安岡正篤 易経講座』より引用。)

 日本には剣道、柔道、合気道、居合道、弓道、茶道、華道、香道、書道等「道」が付く修行の道がある。そこでは礼節や形や心や立ち振る舞いや言葉遣いなどに注意が払われている。修行する場として道場がある。そこには師匠がいて弟子がいる。師匠が弟子に教えるための教本や参考本がある。

弟子が師匠になるまでの過程には幾つかの関門がある。弟子は修行を積み重ね、初めは通過することが比較的容易な関門から入る。関門は徐々に通過が難しい状況に変わる。
弟子は人間的にも技術的にもより高い完成を目指して修行を積み重ねなければ、関門を通過することができない。そのようにして関門を通過した弟子に対して、師匠から「免状」または「許証」というもの与えられる。そのような仕組みで日本の精神文化・伝統文化が維持されて来ている。

人もまた加齢とともに齢相応に「化」してゆかなければならない。「知るというのは自分の頭だけで知るのではなくて、自分の生命で、自分の身体で、覚悟しなければ易を学んでも一片の知的興味、知的遊戯にすぎない」のだ。 人生にも「道」がある。は人生道が天から指示されているのだ。西郷南洲翁が説いているように、人は自ら進んで天の意(こころ)を識(し)り実践行動をすることが求められているのだ。その実践行動は豈(あに)敢(あ)えて自ら安きを謀るものであってはならないのだ。      (続く)