2012年1月15日日曜日


『安岡正篤 易経講座』に学ぶ(19)(20120115)

 “日本人は、女に惚れたことを「参った」という。参ったということは相手の女性の偉大さを認識し、敬意をいだくことである。つまり恋愛というものを対等の感情関係に置かないということであります。

 ところで闘争に於いて、日本人は負けたら「参った」という。これは負けながら相手を尊敬することで、日本民族の精神的優秀性を表している。特に武士道においてこれが発達した。

 参るというと自己を忘れる。空しうする。これと一つになって生きようとする。それを「さぶろう、はべる、侍(じ)する」という。

 だから東洋人は自分の感激する偉大な人に少しでも近づこうとする。本当に好くと、その人を夫に側近く仕えたくなる。自己のすべてを捧げたくなる。この気持ちを「祭る」という。

 これが一歩誤ると「わが仏尊し」となる。それすがって生きようと依頼心になる。自我の自覚、権利主義の自覚が薄くなる。日本人がどうも依頼心の強いのはこれであります。”(以上、『安岡正篤 易経講座』より引用。)

 日本人は古来、中国人に対して「参った」とは言わなかった。聖徳太子の昔から、当時中国の隋王朝の皇帝・煬帝に対して大使小野妹子を通じて推古天皇から煬帝に送る国書を届けた。その国書には「日出る処の天子、日没する処の天子に書を致す恙無きや」と書いてあった。

これに対し煬帝は「蛮夷の書礼無し」と甚だ喜ばなかったが、裴世清らを答使として日本によこしている。これは中華思想の東の獣の国・夷(日本のこと)を他の獣の国々同様慰撫することが目的であった。

今、経済関係だけに目をやり、日本・中国・韓国の三ヵ国の貿易自由化FTAを推進したいと考える政治家・識者ら、いや中国包囲網のTPP域内の貿易自由化を推進したいと考える政治家・識者ら、いや日本と韓国が連帯して中国との貿易自由化を推進する一方でアメリカと連帯して中国と一定の距離を置きながらグローバルな貿易自由化を推進したいと考える政治家・識者ら、いや日本は何処とも連帯せず一国で各国と二国間貿易自由化を推進したと考える政治家・識者らが口角泡を飛ばし合っている。

貿易自由化で利益を得ようという考え方だけに偏れば、そこに「政道」の影は薄くなる。今、日本にとって「参る」相手はいないと思う。日本人はもっと自信を持つべきである。

政治家・識者らは「商道」ばかりに意を向けるのではなく、しっかり「政道」をわきまえ、中国、そして古来中国の影響から脱し得ていない韓国の動き、それも謀略をもった水面下の動きを十分警戒し、日本国を正しい方向に導いて欲しいと願うばかりである。(続く)