2012年1月2日月曜日


『安岡正篤 易経講座』に学ぶ(6)(20120102)

 “而(しか)して今申したような天・天命・命運等は固定的・静止的でなく、変化極まりないものである。この変化極まりないという意味が即ち易であります。

 その出処については略しますが、易とは「変わる」という字であります。だから易は変わらざる、予定された関係を意味する宿命(宿はとどまる)等を研究するものでは決してないのであります。易は運命を研究する。だからそれは変化を探るもの、創造変化、限りなきその実体を研究するものである。決して宿命を尋ねるものでなく、むしろ宿命を運命にする。固定的なものを動的なものにする。これが易であります。だから易(カワル)という文字を当嵌(あては)める。

 しかし易(か)わると意識することはその作用の中のどこかに、易わらざるものがあるからである。だから易は変化を表すと同時に変化の中にあるところの不変、因果の関係、その法則即ち数を表す。その意味で易は変易(へんえき)であると同時に不易(ふえき)を探るものである。

 而して我々にとってこの万物、世界ほど、無限の創造であり変化であるという直接自明のことはない。その意味ではこの造化のハタラキは最も簡単・明瞭・簡易である。だからヤスシという意味もある。

これを易の三義という。

そしてそういう易の変化に基づいて不易の数を研究して、我々の認識や自覚の上の誤謬を正す。その意味でオサメルという意味を持つ。これが易の第四義である。

かくの如く、宇宙人生の創造変化のハタラキに即して、その中にある不変の法則、因果の関係をたどって、これをよく認識、把握することにより、我々の誤謬をオサメ、タダシテ、これによって、本当に、我々の生命を延ばして行くことが出来る。だからノビル、ノバスという意味もある。その意味では、易に五義ありということになる。”(以上『安岡正篤 易経講座』より引用。)

物事の構造には表裏、上下、左右、正負、陰陽など二面性がある。物事の動きには静動、緩急、拡大縮小など二面性がある。物事の性質にも幸不幸、運不運、寒暖などの二面性がある。その二面性のいずれの側にも真実がある。易はそういった二面性を把握してその中に存在する法則を総合的に研究しながら真理を見出すものではないだろうか。

今に生きる我々日本人は、先人達が研究し見出してきた真理の恩恵を受けている。その恩恵に気付くことがなく一生を送るというのは大変残念なことであると思う。今に生きる我々日本人は、先人に真似、先人の教えや精神をよく学なければならないと思う。

日本人が2000年かけて吸収消化して来た仏教は、「あの世」や「前世」を認める意味において宗教であるが、それ以外の教義は正しく「人間の学」である。「あの世」や「前世」の存在の有無は別として、「あの世」や「前世」が「現世」と「縁」続きであることは間違いない。「体内遺伝子」であるDNAと「体外遺伝子」である文化などはその「縁」である。

この「縁」は不思議である。起きた「幸運」なことは偶然ではなく必然であったと思い、見えざるものを畏れ、その見えざるものに素直に感謝する人には「幸運」なことが連続して起きる。まるでそれはその人が神通力をもっていて自在に天地を動かしているかのようである。謙虚、素直、誠実であることは幸運をもたらす。

その人に起きた「不幸」でも見方を変えればその人にとって「幸運」に変わる。ただ、その二面性に気付かなければ「不幸」はいつまで経っても「不幸」である。
易はそういったことを教えるものではないだろうか?筮竹の卦も解釈次第だということではないだろうか?                           (続く)