2012年8月10日金曜日


欲無ければ(20120810)

 良寛の作に「意(こころ)に可なり」という詩がある。「欲無ければ一切足り、求むるあれば万事窮す」という句がこの詩の最初に出てくる。欲望は向上のため必要であるが、ほどほどが良い。欲望が全く無ければ進歩も期待できない。しかし自分の欲望の達成のために他人を傷つけることがあれば、後になって必ず良くないことが自分にふりかかるであろう。因果応報である。結局、幸せは自分の身近なところにあり、自分が置かれた現状に満足しながらも自分の境遇を改善するため正しい心をもって一生懸命努力することが重要である。心が正しくなければ一時的に向上があり満足したとしても、決して永くは続かないだろう。

 ところが世の中には、因果応報を考えず、あるいはそのような因果応報はあり得ないと確信して悪事を働き、他者を傷つけ或いは殺害する人が出て来る。悪人がいなければ善人が善人であると区別できないわけであるが、人類が如何に進歩しても人間の欲望のために悪事は決して無くならないであろう。

 ある人が「この世の中には天使と悪魔がいる。天使も悪魔も人間の背後で人間を支配しているのだ」と言ったことがある。ごく限られた一部の人たちが巨万の富を手にするため殺人兵器を開発し、売り、その販路を広げるためあの手この手の策略を練り、実行している。その兵器の買う人もいろいろな理由でその兵器を買う。兵器を開発し、売る人も、その兵器を買う人も皆それぞれ生き残るためである。巨万の富を手に入れたいがために悪事に使われるものを開発する人も、それを売る人も、巨万の富を手にしなければその世界では生き残れないと考えるからである。生き残ろうとする世界が違うのである。

 世界中の人びとが良寛さんのようなればこの地球上は平和になるかと言えば、決してそのようにはならないだろう。裕福な人たちがいるから良寛さんのような人が目立つのである。良寛さんが理想的かと問われれば必ずしもそうではない。富と貧、聖と俗、善と悪というふうに相対的な観方をしなければ良寛さんを絶対的に良い人だとは評価できない。

 ただ一つ言えることがある。他者を殺害し、あるいは他者に傷害を負わせ、他者を脅しあるは他者に暴言を吐き、他者をだまして金品を手に入れあるいは他者の物を盗むなどという行為は決して正しい行為ではない。泥棒にも一分の魂というが、そういう行為にもそれなりの理由や言い訳はある。弁護士はその理由をもってその行為を正当化するため努力するが、それも弁護により収入など何か得るものがあるからである。弁護士がそのような収入など何か得るもののために活動するのは決して正しい行為ではない。ただ、弁護士が弁護するその対象の人が冤罪にならないようにするため、徹底的に調べようとすることは正義の行為である。そのような弁護士は富を得るため働いているわけではないからである。