2012年8月13日月曜日


「うちの母は40代のとき入れ歯だったわよ」(20120813)

 男は田舎に帰ればしばらく通えないと思い、スポーツセンターで汗を流した。自転車のペダルを踏んで行う運動用器具を使って有酸素運動をし、その他の器具で脚部や腕の筋肉や腹筋・背筋を鍛えている。男はかなり以前から右上腕の肩に近い方の筋肉を少し傷めているので、筋肉トレーニングではその部分に無理な負担はかけない程度に上半身の筋肉を鍛えるようにしている。

スポーツセンターからの帰りのバスの中で婦人たちがおしゃべりをしている。「うちの母は40代のとき入れ歯だったわよ」と誰かが話した言葉で会話が弾んでいる。男はそれを聞きながら我が女房も40代のときだったかどうか記憶はないが、前歯を悪くしたことを思い出した。子供への授乳でカルシウムを取られ歯がやられたに違いないと思っている。男が無知だったためそういうことが起きたのではないかと思っている。

男の歯はまだ全部健在である。歯科医にときどき診てもらいながら多分脆くなっている筈である自分の歯を死ぬまで大切にしたいと思っている。男の歯が丈夫なのは生まれつきのものかもしれないが、男が子どものころ、男の母親は男に卵の殻をすりつぶしたものを与えてくれていた。男はそのお蔭で自分の歯は丈夫なのだろうと思っている。

あの頃牛乳など中々手に入らなかった時代である。今の韓国の田舎の人里離れた僻地のようなところに住んでいたのでなおさらであった。戦後引き揚げてきて農村に住んだ時期があったが、そこでも牛乳などなかった。終戦の翌年、母親が乳がんで別府の病院に入院していたとき、まだ10歳だった男と8歳だった男の弟の二人が、入院中の母親に言われて市内の牛乳を作っている工場まで牛乳を貰いに行ったことがあった。あのとき多分代金を払ったという記憶はない。二人で空き瓶を持って行って突然「牛乳を下さい」と工場の人に言ったら、なにか文句を言われながら牛乳を貰って病院に戻った記憶がある。

男の母親は子供たちの成長のためにはカルシウムが必要であるが、それが足りていないと思っていたのであろう。男の母親はその年の暮れ、まだ幼かった妹や乳呑み児を含め、4人の子供たちを遺して他界した。33歳であった。さぞ悲しく、思い残すことが多かったに違いない。死ぬときはいつものように「お兄ちゃん起こしておくれ」と言い、起こしてやるとその時に限ってがんが転移しているこぶだらけの背中をさすっておくれとは言わず、「東に向けておくれ」と言い、「お仏壇からお線香を取って来ておくれ、お父さんを呼んできておくれ」と言った。相当苦痛であったに違いないが、母親は男にその苦しみの様子を少しも見せなかった。まるで侍が切腹するとき平然として腹を斬るのと同じような態度であった。男の母親は、さすがは幕末の熊本藩士御舟奉行〇〇〇〇の孫娘・長女であった。