2012年8月6日月曜日


国家観とは(20120806)

 一口に「国家観」と言えば右よりのイメージに取られるかもしれない。事実「国家観」を叫ぶ人々を見るとそう取られているだろう。実際は違うのだが戦後教育を受けた日本人は明治維新前後の近現代史について正しく学んでいないし、310万人もの尊い命を失った大東亜解放戦争についても良く学んでいない。それゆえただ漠然と「日本は侵略戦争を行った」「アジア諸国に迷惑をかけた」と思っている人が多いだろう。

 国家観というものを哲学的に捉えなおす必要がある。国家とは何か、ということについて考え直す必要がある。国家と国民は哲学的にどう違うのか考えてみる必要がある。

 「国家は生き物である」と考えることが先ず必要である。国家は生き物である。人間と同様に頭脳あり、感覚器官あり、神経あり、血管あり、骨格あり、筋肉などが有る。政府・情報・通信・運輸・交通・軍隊・警察・消防などすべての組織をそれらに当てはめて考えることができる。個々の国民は国家という生き物の細胞のようなものである。

 細胞も生き物である。細胞が無ければ生き物の体の神経も血管もできない。動物や植物の細胞を微細に分解して調べると、その細胞は実に高度な機能の各部分を有機的に連結動作させている工場のようなものである。国家を一つの細胞として観れば、各国家が集まる国際組織というものも一つの生き物のように観ることができる。

 生物かどうか定義がはっきりしないがウイルスのような個物を含め、地球上のすべての生物はそれぞれ「生き残ろうとする力」を持っている。すべての個物は、この地球上に「存在し続けようとする力」を持っている。17世紀の哲学者・スピノザは、それを「自存力」、即ち「自己を維持する、もしくはその存在に固執する傾向」(Conatus se conservandi, in suo esse perseverandi)とした。

 国家は生き物と同じように「自存力」を持っているものである。国家をそのように捉えることが国家観を考えるうえで先ず必要である。国家と国民とは別物である。日本人は一般に情緒的に物事を考えがちであるから、個人的に接するシナ(中国)人や韓国人に親近感を抱く。それは非常に良いことであり重要なことである。しかし、一方でシナ(中国)や韓国も日本と同様に一個の生き物であるという観方をしっかりと持つべきである。

 国家を生き物と観るならば、例えばある国が他国の伝統や文化の起源が自分たちの国にあると世界に向けて宣伝・工作するような行為は、ある生き物が防御や食糧捕獲のため、つまり自存のため、他の生き物に成りすます行動に似ていることが分る。