2012年8月25日土曜日


日韓関係の改善のために(5)(20120825)

 呉 善花 著『韓国併合への道 完全版』より、括弧(“”)で引用する。豊臣秀吉軍の朝鮮出兵は、スペインによるシナ(明国)への侵略を未然に防止しようとしたものであった。これについてはこのブログで20101017日日曜日「秀吉の朝鮮出兵(20101017)」以降3日間、岩間 弘 著『改定版 大東亜解放戦争 上・下巻』より引用して掲載している。

秀吉軍の朝鮮出兵時連れてきた朝鮮の陶工たちは薩摩藩で上士・郷士などの待遇を与えられて薩摩藩の陶器製造に貢献したが、これは呉 善花 女史が言うとおり、当時の朝鮮の産業の一つに打撃を与えたかもしれない。しかし朝鮮の陶工たちは自分の意志で日本に渡って来たと伝えられている。

“古代、朝鮮半島の三つの王国、高句麗、新羅、百済はいずれも中国の冊封を受けて臣下の礼をとっていた。新羅は朝鮮半島を統一すると、援軍に来たまま駐留を続けようとする唐軍を追い出したが、すぐに唐に謝罪し、唐の冊封を受けて臣下になっている。この関係は唐が新羅末期の九〇七年に滅亡するまで続いた。

高麗は九九三年から一〇一九年までにたびたび北方の契丹の侵入を受けたが、屈することなく戦い続けて自立を守った。が、一二三一年から蒙古軍の侵入を受けるようになり、一二五九年にはついに蒙古軍に降伏して臣下となった。そして蒙古(元)の支配が一三五九年まで約一〇〇年間続いた。その後高麗の政府は、元を北方に追いやって中国を統一した明につくか元につくかで揺れ動いた。が、やがて元は衰亡から崩壊への道をたどり、新王朝の李氏朝鮮は明の裂く冊封を受けて臣下となった。

李朝国家は五〇〇余年の間に二回の大きな侵略を受けている。最初は一五九二年と一五九七年の二度にわたる日本軍(豊臣秀吉軍)の侵略であり、二回目は一六三六年の満州族が建てた王朝清の侵略である。李朝国家は明軍の来援を得て日本軍の支配は避けることができたものの、清には降伏してその臣下に入った。清は一六六二年に明を滅ぼして中国に統一王朝を築き、一八九五年に日清戦争で日本に敗れるまで、李朝に対する宗主国であり続けた。

日本は聖徳太子以来、中国に遣使を送りはしても冊封を受けて臣下になることはなかったし、外国の支配を受けることもなかった。また、朝鮮半島のように常に外国の侵略に脅かされ続ける状態にもなかった。

しかし朝鮮半島の諸国は古代以来二〇〇〇年間に、北方諸民族や倭寇による小規模な侵入を含めると、正史に記録されただけでもおよそ一〇〇〇回の侵略を受けている。とくに高麗時代の蒙古、李朝時代の日本、清による侵略は、それまでに築き上げた朝鮮半島の産業や文化を、繰り返し壊滅に近い状態にまで打ちのめしたといってよい。”