2012年8月18日土曜日


老骨どもでも国の為何か役に立つことが出来るだろう(20120818)

県庁の近くのある居酒屋で小中学時代の竹馬の友男女10人ほどが集まって、昼食に郷土料理のだんご汁などを食べながら語り合った。小学校を出て62年、中学校を出て59年、みないい爺さん・婆さんである。小学校1、2年のころの思い出に、学校に兵隊さんが来ていて校庭の脇に空襲に備えて予備の鉄道線路を引く話があったとか、空襲を避けて神社で授業を受けたことがあったとか、校庭に食糧確保のため芋畑をつくったとかという話が出た。男の記憶には、戦後の食糧難のときサツマイモの茎を茹でたものや、小麦を粉にした後に出るかすを練って焼いたものや海藻で作られたうどんなど、今時考えられないような粗末なものを食べたことがあったというものがある。それは、事情があって引き揚げ先の家から一時期離れていたときのことであった。

 戦後の最も印象に残っている思い出の一つに、昭和天皇のご巡幸列車の通過を送迎したということがある。生徒たちは先生に引率されて駅に行き駅の脇の広場に整列した。やがて天皇が乗っておられる列車が到着し、生徒たちの前をゆっくり通過した。天皇は窓からこちらをじっと見ておられた。あの頃市内は空襲でやられ焼け野原の状態であった。街角には白衣の傷痍軍人が過ぎゆく人々に恵みを求めていた。戦前、男の祖母は荷車を引いて橋に差しかかろうとしたとき、米軍機の機銃掃射を受け、慌てて橋げたの下に隠れたことがあった。終戦前後のそういう状況を体験している年代の人びとは徐々に減ってきている。

 男は終戦直後の8月、母親に連れられて弟妹達と一緒に朝鮮から引き揚げてきた。男の父親は校長であったので業務引き継ぎのことなどあったのであろうか終戦の年の9月、帆船で引き揚げてきた。「朝鮮からの引揚げ」と言う言葉が使われるのは、古代、天智3年、663年、日本軍が唐・新羅連合軍に敗けて何千人という百済の人びとが日本に「引き揚げて」以来のことである。当時、百済は日本の支配下にあった。
 
 男はその居酒屋でスマートフォンを無線ルーターにして持参したノートパソコンに接続して、菅直人元首相が観閲台に立ち観閲している平成22年度自衛隊観閲式のYouTube動画を竹馬の友らに見てもらった。100年兵を養うのはただ一度の戦に勝つためという言葉があるが、15か月前の東日本大震災では10万人という自衛隊員が全国各地から緊急動員され、救助・救援活動を行ったたことは記憶にまだ生々しい。その時の総理は菅直人氏である。観閲式はその5か月前に行われた。ある友は「このような動画は広く一般国民に見せるべきである」と言った。男は「NHKも含めマスコミは偏向思想を持っているから、このような動画には見向きもしないよ」と言った。男は、この日本の再生のため老骨たちができるかもしれないあることを思いついた。それは自分がもう3年間も続けているブログの記事を抜粋した小冊子を作って先ずは竹馬の友らに配って、小冊子に書いてある話を広めることである。