2012年8月12日日曜日


一日一事・一回一事(20120812)

 年寄りは「若い者には負けぬ」と幾ら頑張っても、往年の時にくらべ知力・体力・気力が低下していることは免れない。かつて一日に多事をこなし、一回の動作で多くのことを行うことができていても、齢を取るとそれが出来なくなる。できなくなるどころか、失敗も起きる。年寄りは一日に一つの事、一回に一つの事を時間がかかっても失敗なく確実に行うようにした方が良い。

 男が子どもの頃、父親から「お母さんは仕事の手順が良い。一めぐりして来る間に幾つかの仕事を片付けて来る」と言っていた。そのような母親の息子であるから、男も一度に複数の事を行う能力があった。物事の軽重を素早く判断して同時に複数のことを概ね要領よく行うことができていた。ところが齢をとってくるとそういう気忙しいやり方が億劫になってきた。話す言葉もゆっくり、行うことも慌てず焦らずゆっくり、結果出来なかったことを悔やまず、弁解せず、動画のスローモーションのような時間の過ごし方をするようになった、というよりはなるべくそのようにしており、またそのようにしたいと願望するようになった。

 男の母親は33歳で逝ってしまった。男は10歳の時母親と死に別れて以来このかた自分の母親の想い出を胸に生きてきて早自分も棺桶が近くなった年齢に達した。よく思うことは、もし自分の母親が生きていたら今どんな母親であろうか、ということである。新幹線の到着を待っている新横浜のホームの待合室の向き合に年の頃55歳くらいと思われる母親とその娘らしい30歳ぐらいの女性が何やら楽しそうに語り合っている。男は女房の耳もとに口を寄せ「あの親子も30年経ったら寝たきり介護を受けている婆さんと口うるさい娘になっているかもしれないね」とささやいたら、女房は何も言わず笑っていた。そのとき男は自分の母親が生きていたらどんな婆さんになっているだろうかとふと思っていた。男は息子で母親のいう事にいちいち腹をたてながらも一生懸命介護の世話をしているのかもしれない。自分を産んで育ててくれた母親の下の世話もしているいかもしれない。

 男は博多に向かう新幹線の列車の中で暇つぶしに座席に備え付けられている雑誌『WEDGE』と『ひととき』を読んでいたが、それらをひととおり読み終えた。パソコンを取り出しこれを書いている。隣で女房はイヤフォンを耳にあてて音楽を聴いている。このようなリラックスした快適な旅ができるのも今の母が多少痴呆が進んでいるが老人施設で元気に楽しく暮らしてくれているからである。『WEDGE』に“「認知症の人を地域で」厚労省が本腰」と題する記事が載っている。幸い今の母は精神病院に入入院させなければならないような状態ではない。母が入居している施設は地域密着型で長年住み慣れた町の住民だけが入居できる施設で、スタッフも地縁・血縁の地元の人たちである。

 男と女房がこうしてお盆休みの期間、親の介護の為田舎に帰っている。入れ違いに息子の一人は海外出張から帰国し、久しぶりに家族と一緒にお盆休みの期間を過ごす。建築の設計で日ごろ超多忙なもう一人の息子もお盆休みで家族サービスに努める。男は秋になれば息子たちと個別に何処か赤ちょうちんの店で一杯やりながら、これまでの人生のことについて先ずは息子たちから話を聞き、次に男が息子たちに伝えておきたいことなどを話すという段取りで、できれば2日間かけてじっくり語り合う機会を作ろうと思っている。

 『WEDGE』に『図解「養生訓」』が紹介されている。その紹介記事の一文に「脳の快楽におぼれるな」とある。この本は是非読んでみたいと思う。男が新幹線の列車の中でこのようにブログの記事を書いているのは「脳の快楽」なのだろう。「脳の快楽」におぼれないためには「一日一事・一回一事」を守ることが重要ではないかと思っている。