2012年8月24日金曜日


日韓関係の改善のために(4)(20120824)

 日本では江戸時代に士農工商・非人・穢多の階級があった。しかしこれは職業的な区分であり、非人は良民に戻ることができた。農民や商人から武士になることもできていたし、その逆もあった。但し穢多は肉処理・皮革製品製造等手工業に従事し、居住区域を限られていた。しかし『解体新書』の人体解剖に従事して杉田玄白に尊敬された人や中間・足軽の身分で司法・警察業務に従事した人たちもいた。その身分で資産家になった人もいた。

武士階級も上士と下士に別れていたが固定的ではなかった。薩摩藩では秀吉の朝鮮出兵時連れてきた朝鮮の陶工たちに武士の身分を与えていた。日本の身分制度は基本的にそれぞれの職業の中で切磋琢磨し、向上心をもって生産性を上げることが奨励されていたからある意味で合理的な制度であった。明治維新は武士階級の人たちが自らその身分制度を解体して成就したものである。日本には元々そういうことが可能な文化があった。

呉 善花 著『韓国併合への道 完全版』より、括弧(“”)で引用する。
 “官僚には文官(文班)と武官(武班)があり、合せて両班(リャンバン)と呼ばれた。しかし李朝は極端な文治主義をとっており、武官は文官に対してはるかに劣位な状態におかれていた。全軍の指揮権を司る責任機関の長にも、地域方面軍の指揮将官たちにも高級文官が就任し、その他の高位の武官職もことごとく高級文官によって兼任されていた。”

 “政府の最高機関は議政府とよばれ、最高官位の正一品の文官たちで構成されたが、その時々の王権の強弱によってその権限は左右され、王権が強化されるまと王の諮問機関のような形にもなった。その他にもいくつかの行政や司法を司る機関、学問・書籍・公式文書などに関する機関があったが、基本的には君主専制と官僚専横の相互を牽制してバランスを保ちながら国家を運営するシステムになっていた。

 こうした官僚体制を維持するために、李朝では中国式の官吏登用制度である科挙が実施された。・・(中略)・・
 文官優位であったことから、科挙といえば一般に文科を指し、・・(中略)・・文科の試験は中国の古典籍(四書・五経・史書)と詩文について行われたが、要するに儒学をいかに修めたかを判定するものであった。・・(中略)・・

 科挙ではこのように徹底した成績主義がとられる一方、受験資格には厳しい身分的な制約があり、とくに文科は両班階級の者しか受験できないようになっていた。

 なお李朝時代の身分には、一般に地主階級でもある両班を支配階級とし、その下に三つの階級があった。両班階級の下には、技術と行政の実務に従事する官僚を中心とする中人階級があり、その下には農・工・商に従事して国家に対する賦役全面的に負担する常民階級があり、最下層に国家機関や私的な個人に隷属する奴隷としての賤民階級があった。いずれも身分も世襲身分として固定されていた。”