2012年11月21日水曜日


日韓関係の改善のために(93)「日清戦争への道(続)(20121121)

日清戦争が何故起きたのか、当時の朝鮮はどうであったのか、東学党の綱領「日本を斥け、開化も斥ける」というスローガンのもと朝鮮全州で農民たちが武装蜂起したが、その結末はどうであったのか。韓国ではその当時のことにまともに目を向けようとしていないらしいが、日本人としては当時のことを良く知っておく必要がある。岩間 『決定版 大東亜解放戦争 上巻』(創栄出版)より“”で引用する。
(金弘集について関連:2012119日金曜日『日韓関係の改善のために(81)「日清戦争への道」(20121109)』、
20121110日土曜日『日韓関係の改善のために(82)「日清戦争への道(続)」(20121110)

1894年(明治27年)“七月二十七日に大院君の任命による金弘集内閣が成立した。
七月二十九日、我が陸軍は成歓に敵軍を破り、また牙山(がざん)を占領した。三十一日、清国の総理衛(が)門(外務省に当る)は小村(寿太郎)駐清公使に国交断絶を通告、翌八月一日、日清両国は互いに宣戦を布告した。
一方親日政権打倒をめざす東学軍は一八九四年(明治二十七年)十月中旬「斥倭斥化」(日本を斥け、開化を斥ける)をスローガンとして第二次蜂起を起こすが、日本・李朝政府連合軍に鎮圧され十二月二十八日金琫準以下幹部は捕えられ、漢城の日本公使館の獄に投じられた。井上馨公使は最初、東学党を凶賊集団と思っていたが金琫準に会ってその人格の高潔さと見識の偉大さに、朝鮮人の中で嘗て見たことのない人物として評価した。やがて身柄を朝鮮政府に引き渡さなければならなくなり、死刑にはしないよう希望を託したが、朝鮮政府にとって彼は、史上嘗て見ない大農民反乱を扇動した首謀者であるので、一八九五年(明治二十八年)四月二十三日、井上公使帰国の留守を狙って、幹部六人を死刑にし、金琫準をさらし首にした。時に四十一歳であった。
 金琫準の死刑後、第二代の教主崔時亮は門弟たちと共に山中にかくれ、深山幽谷を転々としていたが、三年後の一八九八年捕えられ、絞首刑になった。時に七十一歳であった。
 また東学党員として活躍していた李容九や宋秉畯(ソウヘイシュン)らは別に「一進会」を組織し、日露戦争に当たっては、日本軍に献身的協力を惜しまななかった。(名越二荒之助(なごしふたらのすけ)「日韓二〇〇〇年の真実」)

また先に成立した金弘集政権は日本軍への「協力」を地方官に指示した。八月下旬には朝鮮政府と日朝暫定合同条款、大日本朝鮮両国盟約に調印した。
両国盟約は、日本軍の朝鮮国内に於ける軍事行動を合法化し、日本軍への朝鮮の便宜提供を義務付けた。(山川出版「朝鮮史」)”(続く)