2012年11月12日月曜日


日韓関係の改善のために(84)「日清戦争への道(続)(20121112)

 金玉均ら独立党による新政府はたった三日間しか続かなかったが、発表された綱領には、目についた箇所だけ挙げれば、「朝貢の虚礼廃止」「門閥の廃止」「宦官や女官の廃止」などが書かれている。門閥は科挙の制度から生じるものである。古代の日本はシナ(唐)に学んだが、科挙の制度や宦官などは決して採用しなかった。金玉均の新政府は、シナ(清国)と完全に手を切り、日本の制度に習う覚悟であったのだ。

 金玉均は国王高宗の安否伺いとしてやってきた沈相薫(シムサンクン)に参内を許した。これが誤算だった。沈相薫は高宗と閔妃に政変の概要を述べ、反乱は金玉均らと日本公使館によるものとして、清軍へ王宮守護を依頼するよう高宗に勧めた。高宗は沈相薫に、李朝政府から清軍に救援を求めさせるよう命じた。こうして袁世凱は李朝政府からの要請という形で介入し、竹添公使に「我々も兵を帯びて宮殿に進み、貴兵と力を一にして労を分かちたいと思う」と書いてある封書を送り込むと同時に一斉攻撃を開始した。清軍は日本兵との交戦を避けて王宮に乱入し、あちこちで放火し、略奪し気勢をあげて威嚇するだけであった。清軍の相手はあくまで金玉均ら反乱者たちであり日本兵ではないというしたたかさであった。こうして金玉均らの新政府は三日間で潰れてしまった。(以上、呉善花著『韓国併合への道 完全版』より要約。以下同書より“”で引用する。

 “甲申クーデターをめぐる日清の衝突は日清両国にとって「両国の意志の外で起きたこと」として始末がつけられたのである。・・(中略)・・天津条約に基づいて日清両軍が朝鮮半島から撤収したのはその年(一八八五年)の七月のことであった。
李朝にとって唯一の収穫は、朝鮮半島から外国の軍隊が撤退したことだった。しかし、それによって、李朝の自立が確保されたわけではない。清国は朝鮮に対する内政干渉を一層強化していったのである。また同時に、日清両国軍隊の撤退は朝鮮進出を狙うロシアを大いに喜ばせるものでもあった。”
 
 “李朝では、一八八五年一月に甲申政変の善後策協定(漢城条約)の交渉がはじまるとすぐに、密かにウラジオストックへ国王の密使が派遣されていた。ロシアの保護下に入る密約を結ぶことで、日清両国の干渉を排除しようとしたのである。
 一方、メルレンドルフは、二月下旬に謝罪使として日本を訪れ、四月初旬に帰国しているが、その滞在期間の大部分を、駐日ロシア公使館書記官スペールとの会見に費やしている。”

 メルレンドルフはシナ(清国)政府の推薦によって李朝政府が外交顧問として向かい入れた人物である。国王高宗はそのメルレンドルフにロシアとの交渉をさせていたのである。同じ開化派でも李朝にとっての脅威は南下政策をとるロシアであり、李朝のとるべき政策は「親中国、結日本、連米国」だと説く金弘植は高宗の工作を阻止した。(続く)