2012年11月28日水曜日


日韓関係の改善のために(100)「日朝修好条約締結後日本が絡んだ事件」(20121128)

 日朝修好条約締結後日本が絡んだ事件は二つあった。一つは1884年(明治17年)(干支:甲申)124日決行された金玉均らによるクーデターの支援である。他の一つは1895年(明治28年)(干支:乙未)108日の閔妃殺害への関与である。後者については朝鮮の志士たちの意を受けて在朝鮮の日本人志士たちが日朝志士連合の形で決起し、これに日本の三浦公使以下在朝鮮の日本軍及び朝鮮の第二訓練隊の兵士らが合流して決行されたものであった。いずれも日本政府が直接関わったものではない。しかし日本政府はそれを是認していた。このことをもって、韓国は、日本は韓国併合を進めるためそのような事件を引き起こしたのだと主張するのかもしれない。しかし物事には必ず二面性があるので、韓国を併合せざるを得なかった当時の状況について日韓両国民ともよく勉強し、状況を正しく知り、併合の功罪についても良く検証し、お互い理解すべきところは理解し合うべきである。何事も問題が起きれば一旦原点に立ち戻ればよいのである。そうすることが日韓関係を改善するきっかけになるであろう。しかし現状では、韓国は韓国独自の歴史認識を日本に押し付けるだけである。関係改善は永久に無理と考える方が現実的である。

甲申クーデターの場合は、“日本の竹添公使は初めある者の讒言(ざんげん)を聞いて金玉均を疑いの目で見ていたが、その誤りに気付いた後、金玉均に自分の不明を詫び、その後金玉均の朝鮮独立への志を評価し、クーデターを決行するならば支援することを約束した。時に十一月七日であった。”(このいきさつについては『甲申日録』に竹添進一郎公使ほか金玉均ら朝鮮側関係者の発言の記録として呉 善花 箸『韓国併合への道 完全版』に紹介されている。)

乙未事件については、“日本人による王宮侵入から閔妃虐殺に至るまでのなりゆきは、王宮内にいたアメリカ人侍衛隊教官ダイーとロシア人技術者サバティンに目撃されており、彼らは見たままを証言したのである。そのため、三浦公使の「事件は大院君が結託して起こした軍事クーデターであり、日本軍は国王の依頼を受けてその衝突の鎮圧に出動したのだ」という主張を信じる外国公使はなく、国際的に大きな非難の的になったのである。苦境に立たされた日本政府は、急遽三浦公使を解任召喚し、閔妃殺害に関与した軍人八名を軍法会議にかけ、四八名を広島刑務所に収容し予審に付したが、いずれも無罪・証拠不十分として釈放された。・・(以下略)”(この部分は、呉 善花 『韓国併合への道 完全版』より引用。)


 甲申クーデターの背景には1882年(明治15年)(干支:壬午)723日に起きた李朝の旧軍兵士らと下層市民ら反乱デモ隊が “閔妃皇后を捕らえろ」「皇后を亡き者にしないと我々は生きておれない」”と叫びながら日本の“堀本少尉を殺害し、官庁、閔氏一族の屋敷、日本公使館などを襲撃して王宮に乱入”するという大暴動(壬午軍乱)があった。この壬午軍乱が起きる6年前、1976年(明治9年)326日、日朝修好条約が締結され、日本の主導により朝鮮の近代化が進められていた。殺害された堀本少尉は“明治十四年(一八八一年)五月、日本のすすめによって閔氏政権は近代化の軍隊として・・(中略)・・近衛士官(王室を守る将校)の養成を行”うため、閔氏政権によって招かれていた将校である。

壬午軍乱を契機に李朝に対するシナ(当時、清国)の軍事介入があった。シナ(清国)は朝鮮に対する宗主権復活の好機ととらえ、積極的に行動を起こしたのである。当時の情勢を考えて見れば、南下を目指すロシアも宗主権を守りたいシナ(当時、清国)も、李朝の王族や両班階級の人々も、近代化に目覚めた若手官僚や一般市民たちも皆、あたかも加熱された物質を構成する分子が激しく動きまわりぶっつかり合うように社会全体が沸騰するような状況で、みなそれぞれ自分たちが「生きのびる(=自存)」ため行動していたのである。東アジアにおける各国の「自存」の行動は今再び活発になりつつある。日本は戦後「平和を愛する諸国民の公正と信義」を信頼して来たが、現状ではそれでは生き残ることは出来ない。日本の周囲の諸国に公正と信義などはない。それが現実である。

壬午軍乱が起きた当時の李朝では“同じ開国、開化派にも二つの派があって、一つはあくまでも清国との宗属関係を守って行こうとする事大主義に立つもので、斬新的に開化を進めようとする穏健開化派といわれるもので、閔泳翊(ミンヨンイク)、金弘集(キムホンジブ)といった政治家達がこれに属する。
一方、もう一つの開化グループは新しい文明を積極的に取り入れて、日本に見習って一日も早く近代国家を建設しようとする独立党とも開化党とも言われた。その中心人物は金玉均(キンギョクキン)、朴泳孝(ボクエイコウ)など若手政治家であった。
だから朝鮮は大きく分けて、大院君が進めた復古、鎖国攘夷派と閔氏政権内の穏健派と、それに対する急進的開化派の三つの勢力があった。”(“”内は岩間 弘 著『決定版 大東亜顔袍戦争 上巻』より引用。)

 三つの勢力のうち、大院君が進めた復古、鎖国攘夷派は、シナ(清国)にすり寄ったりロシアにすり寄ったりして、結局は朝鮮の独立・開化の妨げになった。白人優位の人種差別があった当時の世界において、朝鮮はロシアの属国になりかねない状況にあった。中でも閔妃を中心とする勢力はシナの属国であることに甘んじ、朝鮮人民の幸福のことなどよりも、自分たちの幸福のことしか考えていなかった。幕末の日本の武士たちは違っていた。自分たちの身分を守ることよりも、まず日本の国が世界の中で「生きのびる(=自存)」ことを考えていた。大東亜解放戦争を戦って死んでいった日本の軍人たちも同様であった。

在中国特命全権大使だった丹羽宇一郎氏が在任中「将来は大中華圏の時代が到来します」「日本は中国の属国として生きていけばいいのです」「それが日本が幸福かつ安全に生きる道です」(『WILL 20127月号)”と発言していたが、TPPや原子力発電に揺れる「日本」を「大院君が進めた復古、鎖国攘夷派」という言葉に置き換えて、日本が平和に安全に、繁栄を享受しつつ「生きのびる(=自存)」のため取るべき政策はどうあるべきか考えてみると面白い。真に国の為になる理念や政策は何なのか。それは表向きの美辞麗句の下に見え隠れするシナ(中国)の属国になることも視野に入れたような政策ではないことだけは確かである。