2012年11月25日日曜日


日韓関係の改善のために(97)「閔妃殺害(20121125)

 日本が韓国を併合するに至った過程において道義に反した事件があった。「道義に反した」というのは、私個人の見解である。但し私が「道義に反した」とする部分は閔妃殺害そのものを問題にしているのではない。また日本による韓国併合が間違っていたと言うのでも断じて無い。私が「道義に反した」とする部分の一は、日本公使の三浦梧楼陸軍中将率いる日本軍がやったのか、日本の壮士たちがやったのか或いは朝鮮の志士たちがやったのか明らかではないが、殺害した閔妃の遺体を王宮の外に運び出して焼き捨てたこと、その二は、閔妃殺害に関与した朝鮮側の親日派李周会将軍らは朝鮮側の裁判で死刑に処せられたが、同じく閔妃殺害に関与した日本公使三浦梧楼陸軍中将は急遽解任・召喚され、関係者は全員軍法会議にかけられ、広島刑務所に収容されて予審に付されたものの、すべて証拠不十分ということで無罪とされたこと、この二点である。

閔妃の遺体を王宮の外で焼くというのは「武士の情け」も無いやり方である。また朝鮮の志士たちが朝鮮の官憲に捕えられ処刑されたことは残念なことである。日本も朝鮮の志士たちも共に閔妃排除が目的の行動をしたのであれば、三浦公使は朝鮮の志士たちを徹底的に守り抜く準備も怠りなく行った上で行動すべきであったのではないかと思う。しかし歴史に「もしも」は後世の者が言うことである。この事件は朝鮮国内で起きたものであり、李朝の政府は機能しており、当時の状況としてはこれが限界であってどうにもならなかったことかもしれない。岩間 『改訂版 大東亜解放戦争 上巻』から“”で引用する。

“この事件で朝鮮側の裁判は厳しかった。・・(中略)・・李周会以下三人が死刑、四人が終身流刑、四人が懲役刑であった。
(註)李周会は三浦公使以下が下獄したことを聞くと「日本の我が国に尽くすこと国を挙げて至らざるなし。この事変に会し、多数の志士の拘送見るに至る。義としてこれを看過すべきにあらず」と言って従容として縛につき、刑場の露と消えた。義に準じた李の行為に深く感じた日本人志士達は後年、処刑された李周会ら三名の碑を建て、その義烈を後世に伝えた。(黒竜会「先覚志士記伝」上、中村「大東亜戦争への道」再引”

 上記引用と前後するが“日清戦争後、日本に対して行われた三国干渉に日本が屈服すると親日派は動揺してロシアに迎合し、日本侮辱の感情が起こり、親日派官僚は排除され、親露派の人物が多数入閣して閔妃一派もロシア公使ウェーバーとの接近を深めていった。

 当時王宮を護衛していたのは米国人指揮下の侍衛隊であったが、これは規律な旧兵であり、軍律ある部隊は日本人教官に訓練された二大隊(八百人)の訓練隊であった。ロシアは親日派一層のため、先ず訓練隊を廃止して、武器を押収せんとしたため、訓練隊は激昂した。(中村「大東亜戦争への道」)”(続く)