2012年11月2日金曜日



日韓関係の改善のために(74)「福沢諭吉の影響(続)(20121102)

 (関連:20121029日月曜日『日韓関係の改善のために(70)「福沢諭吉の影響(続)」(20121029)』)。以下、呉善花著『韓国併合への道 完全版』引用部分を“”でくくって紹介する。

 壬午軍乱後に結ばれた日本と李朝との間の済物浦条約のなかに日本への使節の派遣があった。「国書を修むるを以て日本国に謝する事」が条文で、日本に陳謝の意を表明するための使節である。
 李朝政府は清国には軍乱鎮定のお礼として陳奏使を送ったが、日本に対してはこれを修信使の名のもとに派遣している。李朝が名目を保とうとしたわけだが、日本はとくにそれについて文句をつけようとはしなかった。
一行は、正使朴泳孝、副使金晩埴(キムマンシク)以下、徐光範、閔泳翊、徐載弼、柳赫魯(ユヒョンノ)ら二〇名が名を連ね、金玉均は顧問として参加した。”

 福沢諭吉は、帰国する朴泳孝らが李朝で新聞発行など文化活動ができるようにと印刷技術者らを同行させたが閔氏政権はその意義を全く理解していなかった。“朝鮮の国情は明治維新当時の日本の状況と根本的の相違があり、洋学振興の余地がなかった”のである。(関連:20121030日火曜日『日韓関係の改善のために(71)「福沢諭吉の影響(続)」(20121030)』)

 “竹添進一郎公使は新任の朝鮮駐在日本公使だが、後で述べるように、独立党の志をまったく理解していなかった。牛場卓蔵と高橋正信はなすすべもなく三か月ほどで帰国してしまい、井上角五郎だけがなんとか八月に新設の統理衛門博文局主事という職を与えられ、朝鮮初の新聞の編集発行にあたることになった。これが『漢城旬報』で、一八八三年一〇月三一日の創刊であった。
 『漢城旬報』は四六倍判二四ページの冊子スタイルでの漢文新聞で、掃除の部数は約三五〇〇部。うち三〇〇〇部は地方へ頒布し、二〇〇部は漢城内の各省庁が購入し、三〇〇部は一般の希望者が購入した。官報の役割も果たし、世界文明に関する啓蒙記事、国内記事、海外事情、論説などを乗せた。

『漢城旬報』は一八八六年(明治一九)に『漢城周報』と紙名を改め、福沢の発案で、日本で鋳造させたハングル活字を使って、「漢字ハングル混じり文」の文章が用いられた。文体の創案は、井上角五郎が劉大致から紹介された老儒者によるものであった。
 福沢はその理由を、井上角五郎宛ての手紙のなかで、「漢文だけでは読者範囲が狭すぎるため、仮名(ハングル)を使うことで、朝鮮の漢文を至上とする旧主義を一転させたい。日本でも古論を排した仮名混じりの通俗文の力というべきで、このことをけっして軽視してはいけない」と述べている。”
日本は、真に誠心誠意、朝鮮の近代化のため尽力した。今の韓国人はそれを「日本の侵略行為」であると決めつけている。今の韓国の基礎は誰が力を貸して作り上げたのだろうか?日本人として、真に残念かつ腹立たしいことである。(続く)