2012年11月27日火曜日


日韓関係の改善のために(99)「閔妃殺害後の状況(20121127)

 閔妃殺害にいたる状況について岩間 箸『改訂版 大東亜解放戦争 上巻』から“”で引用する。閔妃殺害後第四次金弘集内閣が成立したが、ロシアの手を借りた義兵によるクーデターが起き、金弘集らは殺害された。閔妃殺害は閔妃自身が李朝内の親露派の中心人物であったため、そのままでは朝鮮はロシアによって支配されるであろうという強い懸念が日本にも李朝内の開化派にもあったためである。

韓国は盧武鉉政権時代の200512月、「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」を制定し、117年~128年前(明治17年~明治28年)に朝鮮の開化・独立・改革のため行動した志士たちを国賊扱いにし、志士たちの子孫が受け継いだ財産までも国家が没収すること、さらに日本による統治をプラスに評価した者を国家が処罰できることを正当化した。韓国民はその法律に縛られ、日本のように自由にものを言えないようである。日本も民主党が「人権侵害救済法案」を閣議決定しているが、もしこの法案が成立すれば、「物言えば唇寒し秋の風」というような時代になることだろう。

関連:20121123日金曜日『日韓関係の改善のために(95)「三国干渉後の世界」(20121123)』)http://hibikorejitaku.blogspot.jp/2012/11/blog-post_23.html

 “排日、親露気運の高まる中「閔妃を葬れ!」の思いは在朝鮮の日本人志士のみならず、反閔妃派の朝鮮政客の叫びであった。朝鮮側から親日派の李周会将軍、訓練隊隊長の李斗璜、禹範善等が反閔妃決起の志を日本人志士達に通じて接近し、ここに日朝有志の連合が成ったのであった。(黒竜会「先覚志士記伝」上)(中村燦「大東亜戦争への道」再引)

 明治二十八年十月七日、朝鮮政府が訓練隊解散と武装解除を通告すると、八日未明閔妃排除を深く決意した日本の三浦梧楼公使の指示を受けた訓練隊と、日朝有志は大院君を擁して、王宮に侵入した。

 この際日本軍訓練隊歩兵第十八大隊四百五十名、朝鮮訓練兵士及び日本人壮士たち(領事館員、居留日本人など)が合流して景福宮に乱入し、王宮を警備していた第一訓練隊を銃撃戦で敗退させ、さらに近衛の侍衛隊を打ち破って王宮を占拠した。さらに閔妃が寝室に居たところを探し出し、斬殺し、遺体を王宮の外に運び出して焼き捨てた。時に四十五歳であった。これを閔妃事件或いは乙未(いつぴ)事変という。(呉善花「韓国併合への道」)

 こうして、親露派に代わって親日派が権力を掌握したが、日本政府は、急遽三浦公使を解任召喚し、閔妃殺害に関与した軍人八名を軍法会議にかけ、四十八名を広島刑務所に収容し、予審に付したが、いずれも無罪、証拠不十分として釈放した。

予審に於いて、三浦ら公使館の者たちは、日清戦争直前の王宮占拠の前例にならって行ったものであり、政府がそれを是認している以上、我々はなんら罪を負うべきものではない、といった意味のことを述べている。(呉善花「韓国併合への道」”(続く)