2012年11月16日金曜日


日韓関係の改善のために(88)「日清戦争への道(続)(20121116)

 天津条約により朝鮮半島からシナ(清国)軍も日本軍も撤退したが、東学教団の幹部が率いる農民による武装蜂起があり国王高宗と閔氏の政権がシナ(清国)にその鎮圧を依頼したためシナ(清国)が介入した。これを受けて日本も日本公使館と日本人居留民の保護のため軍隊を送った。この事態は東学軍にとって思いもよらぬ事態であった。東学軍の決起 “「両班戚族による虐政」に反対し「貪官(どんかん)汚吏の追放」が目的” であった。李朝政府軍は東学軍に“弊政革新の妥協案を含ませ”た。東学軍は“六月八日に全州城から撤収し、本拠地を南原に移した。(名越二荒之助(なごしふたらのすけ)「日韓二〇〇〇年の真実」”

“東学軍の全州撤退を受けて、朝鮮政府は日清両軍の撤退を求めた。しかし日本は朝鮮の内政改革が行われなければ、また反乱が起きる可能性があるから改革が先であるとして、日清共同で改革案を検討することを提案したが、朝鮮政府は袁世凱の後援を得て、強硬に改革に反対した。日本政府の内政改革案は清との属国関係の排除であるから清が反対するのは当然である。”(“”内は 岩間 箸『決定版 大東亜解放戦争 上巻』(創栄出版)より引用。)

この部分について呉善花著『韓国併合への道 完全版』からも“”で引用する。
“李朝政府は急遽、農民軍幣制改革案の受理と農民軍への安全保障を約束して、和平を提議する。農民軍はそれを受け入れて全州からの撤退を開始した。こうして李朝政府は両国軍に撤収を要請する。清国はそれを受けて日本に共同撤退を提案するが、日本はそれを拒否し、内政改革案をもって李朝への共同介入を提案する。しかし清国はこれを拒否し、袁世凱は秘かに漢城から本国に帰還してしまった。
そのため日本は七月三日に駐朝鮮公使大島圭介から外務督弁に改革綱領を提示させ、七月一〇日、李朝政府に内政改革案を示した。それに対して李朝政府は一六日、日本軍の撤収が改革実施の前提であるとして回答を拒否した。日本は李朝政府が内政改革を行わなければ内乱が再発する、したがって改革をしなければ軍隊を撤収しないと応じ、あくまで内政改革を要求し続けた。

もちろん高宗にしても改革を不要としていたわけではない。農民軍から提議されていた幣制改革案を含めて、早急に内政改革を行う必要は認めていた。また政府官僚からも改革を望む声が多数出てもいた。そのため高宗は政府内に一部改革派を入れ、改悪推進機関としての校正庁を設置して「更張(改革)への詔勅も下した。
しかしながら、これは単に改革への姿勢を示しただけで、どのような改革をするかが明示されていたわけではなかった。そのため日本は、そこから新たな体制が切り拓かれるとはとうてい思えなかった。しかも農民軍は完全に武装解除したのではなく、閔氏政権の打倒と農民自治体制が実現されない限り、いつでも再蜂起することが考えられた。したがって、高宗の改革姿勢だけでは「相応の改革が行われるまでは日本軍の駐留は必要だ」という日本の主張は変えられるはずもなかったのである。”(続く)