2012年11月10日土曜日


日韓関係の改善のために(82)「日清戦争への道(続)(20121110)

 李朝で同じ開化派でも金弘集(キムホンジブ)、金允植、魚允中らはシナ(清国)による干渉が強化されても従来どおりシナ(清国)の影響下で近代化を推進していこうとした。その金弘集は、1880年(明治137月に第二次修信使の正使として日本に派遣されている。同じ開化派でもあくまでシナ(清国)からの独立を目指す金玉均(キムオクキュン)、朴泳孝、徐光範ら独立党は金弘集らと激しく対立した。青年官僚金玉均は18823月、国王高宗の内命で日本視察にやってきて福沢諭吉の世話を受けている。(関連:2012928日金曜日『日韓関係の改善のために(39)「日朝修好条約締結後の状況」(20120928)』 http://hibikorejitaku.blogspot.jp/2012/09/blog-post_28.html 及び 2012109日火曜日『日韓関係の改善のために(50)「開化派勢力の分裂」(20121009)

 日本政府全権大使井上馨は李朝政府金弘集と交渉にあたった。呉善花著『韓国併合への道 完全版』より“”で引用する。
 “李朝政府は金玉均・朴泳孝らの引き渡しを再三日本政府に要請したが、日本政府は一貫して「彼らは政治亡命者である」として拒否し続けた。
 四月三日から伊藤博文と李鴻章が天津で会談し、四月一八日に日本と清国の間に天津条約が結ばれた。その主な内容は次の通りである。
   日清両国は四か月以内に朝鮮からいっさいの兵を撤収する。
   日清両国は朝鮮国王に、兵士を教練して自らの治安を護ること勧める。また朝鮮国王が、兵士の教練を外国に委託する場合は、日清両国以外の外国から一人または数人を武官に雇って、それにあてることとする。今後、日清両国は人を派遣して朝鮮において教練をしないこと。
   日清両国は重大事変が発生して軍隊を朝鮮に派遣する場合には、互いに事前通告をすること。事変が平定すればすぐに軍隊を撤収し駐留しないこと。”

 政変時に起きた清兵と朝鮮暴徒による日本人への略奪・暴行・殺戮・婦女暴行などの被害について、李鴻章は「昨年の漢城の変、すなわち中国官兵と日本官兵とが王宮で闘争した一件は、実に両国の意志の外でおきたことであり、本大臣はまことに悲しく残念に思う。
 思うに、中日両国の平和・友好の歴史は長い。中国の官兵らは一時的な情がはやって止むを得ず闘争したと言っても、いまだ慎みの心に至らないものもある。本大臣が文書をもって戒め慎ましめる。・・(以下略)」”

 反日デモに関連して似たようなことが、将来シナ(中国)側から聞かされることになるのかもしれない。シナ(中国)も韓国も自存のため利己的である。日本は彼らのように利己的であってはならないが、自存のためには強い力を示さなければならぬ。(続く)