2012年11月5日月曜日


日韓関係の改善のために(77)「自主独立を目指したクーデター(続)(20121105)

 (関連:2012102日火曜日『日韓関係の改善のために(43)「清国と日本の出兵(続)」(20121002)』、2012103日水曜日『日韓関係の改善のために(44)「李朝への干渉を強化する清国」(20121003)』、20121028日日曜日『日韓関係の改善のために(69)「福沢諭吉の影響」(20121028)』、20121029日月曜日『日韓関係の改善のために(70)「福沢諭吉の影響(続)」(20121029)』、20121030日火曜日『日韓関係の改善のために(71)「福沢諭吉の影響(続)」(20121030)』)

 1882年(明治15723日に起きた壬午軍乱は漢城に駐留していたシナ(清国)によって鎮圧された。その軍乱で日本は李朝の軍隊に対して近代的な軍事訓練を行っていた堀本少尉らが殺害されるなどの被害を受けたので、李朝にそれを補償してもらうため日本と李朝の間で730日に「済物浦(さいもっぽ)条約」というものが締結された。この条約の中に日本政府への賠償金50万円というものがあるが、日本公使館に若干の兵員を配備することも合意された。この「兵員配備」の条項により、150名の兵員が公使館に配備された。

この兵員が金玉均にとってクーデター成功の頼みの綱であったのである。クーデターはシナ(清国)軍の介入をさせないように決行された。しかし閔妃の狡知により、結局は李朝政府による要請の形で袁世凱が1300名の兵士をもって介入した。王宮にいた日本軍150名はこれと戦闘になった。以下、呉善花著『韓国併合への道 完全版』から“”引用する。

 金玉均、朴泳孝、徐光範の三人は“すでに帰館していた島村から、予定に変更はない旨を確認すると、三人はその場で王宮へ向かった。道の要所に待機していた同志四十数名も三々五々、王宮へ向かう。・・(中略)・・一同が金虎門に集まり、同志の一人である守衛が門を開けると、三人はそのまま寝殿に直行する。四十数名の同志と三十名の日本兵が、金虎門への道路の要所を固める。寝殿はすでに尹景完(ユンギョンワン)以下五〇名の兵士で守衛されている。・・(中略)・・
 金玉均は宦官の柳在賢(ユジェヒョン)に国王を起こしてくるように言うが、柳はしきりにそのわけを聞いて動こうとしない。金玉均が大声で「国家の大事が発生した、宦官などに言う言葉はない」と叫ぶと、国王はその声を聞きつけ「何事が起きたのか」と言って金玉均の名を呼ぶ。
三人はすぐさま国王の寝室に入り、郵政局に変乱が起き暴徒らが王宮に向かっているため、至急、正殿から景祐宮へ移るべきことを奏上する。
閔妃が「事変は清によるものか日本によるものか」と金玉均に問うと、そのとき大爆音が殿中に響きわたった。そのため、高宗は即刻遷座を承諾した。・・(中略)・・宦官の柳在賢が閔妃の命を受けて、国王に「日本人による変事」を伝えたため、国王や閔妃を初めとする宮人たちの面前で殺害された。・・(中略)・・

翌一二月五日早朝、独立党は『朝報』をもって新政府樹立と閣僚の氏名を国民に公表した。”(続く)