2012年11月23日金曜日


日韓関係の改善のために(95)「三国干渉後の世界(20121123)

 日本が「三国干渉」に屈した結果、李朝内に親露派が台頭した。この結果、日本が精魂傾けて朝鮮の近代化に取り組んだ努力も水の泡となった。しかし日露戦争の結果、日本は遼東半島(旅順)や奉天(瀋陽)からロシアを駆逐した。そして日本は韓国を併合し、朝鮮を日本国内並みに改革する政策を進めた。今、シナ(中国)が旧満州も含めてシナ(中国)の主権が及ぶ地帯になったのも、朝鮮が一流国並みになることができたのも、日本がロシアと戦って勝ったお蔭である。そのことを全ての日本人は知っておくべきである。

その上で、愛国心教育のため近代史をねじ曲げて誤った歴史教育を行い、自国民に反日思想を受け付けて続けているシナ(中国)と韓国に対しては、国際的大々的キャンペーンも含め、日本は徹底的にその誤りを正すようにするべきである。日本人は押し付けられた憲法前文にあるような「平和を愛する諸国民の公正と信義」に信頼することは止め、「騙すよりも騙される方が悪い」と考え、自らは他国民を決して騙すようなことはしないが、決して騙されないようにしなければならない。

ただし用心しなければならないことがある。シナ(中国)が女真族の満州を漢族に同化させることに成功したことは、古来、中華思想を捨てないシナ(中国)漢族がやってきた独特やり方である。尖閣・沖縄・奄美・八重山も含めシナ(中国)が隙あれば掠めとろうと行動していることについては、日本はアメリカに頼らずとも自力で対処する自覚と実力を持たなければならない。
引き続き呉 善花 著『韓国併合への道 完全版』から“”で引用する。

 “一八九四年(明治二七)七月の甲午政変によって金弘集内閣が成立すると、金弘集を総裁官とし、魚允中、金允植、兪吉濬ら新改革派官僚を会議員とする軍国機務処という名の改革推進機関が設立された。そして彼らによって、一〇月までに政治制度、経済体制、社会体制、地方制度の改革が次々に行なわれていった。(第一次甲午改革)

 しかし改革は高宗・閔妃派・大院君派官僚たちから大きな圧力を受けていたため、日本がめざす近代民族国家体制の創出にまでは、手をつけることができないでいた。そのため一〇月に大鳥圭介に代わって着任した井上馨公使”の要請によって、一二月に軍国機務処が廃止され、日本へ亡命中の朴泳孝とアメリカへ亡命中の徐光範を呼び戻し、彼らを含んだ第二次金弘集内閣が新たに組織された。そしてこの挙国一致内閣によってさらに近代化が推し進められたのである。(第二次甲午改革)。

 しかしながら日本が三国干渉に屈したため、翌年六月に第二次金弘集内閣は崩壊し、井上の改革構想は一気に頓挫することになってしまった。

 それでも朴泳孝はなんとか実権を確保したものの、急速に親露派が台頭し、朴泳孝は彼らと対立に敗れて失脚し七月に再び日本へ亡命する。ロシア公使の閔妃への接近を防止するため、王宮警護を訓練隊(日本士官が指導する朝鮮部隊)にまかせようと建議して高宗の反対を受けたたことが、彼の失脚を招いたのである。

 八月に第三次金弘集内閣が成立するが、そこでは開化派は斥けられ、閔妃派や欧米派の官僚たちが登用された。こうして閔妃勢力が権力を回復し、彼らはロシアの後援を得てほぼ開化派勢力の抑制に成功したのである。

 ただ、甲午改革は朝鮮近代史のうえできわめて大きな意義があった。甲午改革によって推進されたのは、政治・経済・社会全般にわたる大幅な近代化であり、農民軍から提議されていた幣制改革にも応えうるものであった。基本的には金玉均らが甲申改革の最中に示した「甲申政綱」を引き継いだものであった。

主なものをあげると次のようになる。
   王府と政府との分離
   清国との宗属関係の廃止
   近代的政治制度・官僚制度の導入と科挙制度の廃止
   地方自治制度の導入  
   租税の金納化・幣制改革をはじめとする財政改革
   軍隊・警察制度の改革
   近代的学校制度の導入
   司法権の独立と近代的裁判制度の導入
   諸身分の廃止と嫡子・庶子差別の撤廃
   女史の再婚の自由と早婚の禁止

しかしながら、これらの改革推進には国王・閔妃・大院君各派の反発が強く、結局は実を結ぶことはなかった。…(中略)・・・

親露派官僚たちは、ロシア公使館内で国王に国王親政を宣言させ・・・(中略)・・・金弘集と鄭秉夏は光化門を出たところで群衆に打ち殺され、魚尹中は故郷へ逃げる途中で民衆に殺害され、金允植は逮捕されて済州島へ終身流刑され・・(中略)・・ここに旧独立党派も穏健改革派も完全に壊滅させられ、日本が精力を傾け続けてきた朝鮮内政改革への流れが終焉するのである。” (続く)