2012年11月6日火曜日


日韓関係の改善のために(78)「自主独立を目指したクーデター(続)(20121106)

 金玉均ら独立党によるクーデターは1884年(明治17124日(甲申1017日)に起きたから「甲申クーデター」と言われる。呉善花著『韓国併合への道 完全版』によれば、このクーデターに日本政府が関与したかどうかは明らかではない。日本政府内では、竹添公使が日本公使館に配備していた150名の日本兵士を、独断で金玉均ら独立党によるクーデター援護のため使ったとして竹添公使を処分しようとしたが、井上馨外務卿が自分に責任があるとしてその処分はなかった。 “第一に考えなくてはならないのは、竹添公使が、クーデターが起きる二〇日以上前の一一月一二日付で、次のように甲乙二つの対朝鮮政策案を建議して、政府の指示を仰いでいることである。
 甲案 金玉均ら独立党を扇動して朝鮮に内乱を起こす。ただし、朝鮮国王の依頼によって王宮を守衛するという名目で日本公使館の守備兵を出動させる。
 乙案 清国と事を構えることなく朝鮮問題は自然のなりゆきにまかせる。ただし、閔氏事大党の力がしだいに大きくなっていることから、電報などでさらに指揮いただきたい。
 (市川正明編『日韓外交史料・第三巻』原書房より要点だけを要約)”
(以上、呉善花著『韓国併合への道 完全版』より引用)

このクーデターに対しても袁世凱のシナ(清国)軍の介入があり、日本側にも多大の被害があった。竹添公使と館員と雇人男女30余名、職工70余名、兵士140余名と金玉均ら一行は127日午後2時、漢城の日本公使館から脱出し、途中、戦闘を交えながら翌朝7時頃ようやく仁川の日本領事館に避難し、11日、仁川から千歳丸で長崎に向かっている。

このクーデターのときの混乱では、先の尖閣国有化に反発したシナ(中国)政府が陰で操って引き起こされた反日デモのときの状況に似たようなことが起きていた。先のシナ(中国)各地で起きた激しい反日デモによる破壊・略奪・暴行の被害を受けたときも、日本政府はシナ(中国)に対して声を大にして抗議してはいなかった。128年前の時も今年の夏も、日本政府としてはシナ(中国)に対しては表立って抗議できない「弱み」を持っていた点では同じである。今回の場合は、戦後日本が「依存心」「依頼心」を持ち、貿易振興・経済繁栄にばかりを考えた結果の「弱み」である。日本は、「サムライ」「武士」の魂を取り戻さなければならない。さもなければ日本人はまた、何かのきっかけで一部の暴徒化したシナ(中国)人や韓国・朝鮮人らによって下記に似たような目に遭うことになるだろう。

 “政変時の清兵と朝鮮暴徒による略奪・暴行には、すさまじいものがあった。鍾路付近の商店のほとんどが破壊・略奪の被害を受け、日本人家屋からの略奪が相次いだ。また、各地にまとまって避難していた日本人集団が襲われ、あちこちで婦女暴行や、殺戮の惨劇が惹き起こされた。”呉善花著『韓国併合への道 完全版』より引用)(続く)