2012年11月1日木曜日


日韓関係の改善のために(73)「福沢諭吉の影響(続)(20121101)

 金玉均は国王高宗の命を受けて日本から三〇〇万円の借款を受ける交渉のため日本に渡っているが、日本の方針が急変したためその借款を得ることができなかった。さらに閔氏勢力によって金玉均の排斥と独立党への圧迫が始った。日本の戸山学校で学んで帰国した留学生たちも新式の軍隊づくりが出来なかった。四面楚歌に陥った独立党は金玉均邸でひそかに会合を持つようになった。三〇〇万円借款が実現しなかった背景には、シナ(清国)による対朝鮮干渉政策の強化による日本の外交方針の変更がある。

 今、シナ(中国)の対朝鮮半島戦略の動きに対して、今の日本の外交は何か影響を受けてはいないだろうか?当時の日本は親シナ(清国)姿勢を示して三〇〇万円の借款を断ったが、金玉均ら独立党に対しは積極的な援助を行う姿勢に転じている。しかし、金玉均らは日本の外交方針の変化には関係なく、自ら動いて国王高宗を擁して近代民族国家を打ち立てるべくクーデターを起こした。

 18848月、シナ(清国)とフランスの間にベトナムをめぐって戦争が勃発した。当時、金玉均は、国王高宗に“「日本が単独で清と戦えば勝敗には予測し難いものがありますが、フランスと呼応して戦えば日本の勝利はまちがいありません」”と述べている。この状況は、何となく今の日本とシナ(中国)とアメリカの関係に似ていないか?以下、同様“”で呉善花著『韓国併合への道 完全版』より引用する。

 “一八八四年(明治一七)・・(中略)・・一一月四日、金玉均ら独立党は、朴泳孝宅に島村久書記官を招いた。参加者は金玉均、朴泳孝、洪英埴、徐光範、島村久の五人。そこで金玉均は、島村久にクーデター計画を打ち明けている。

 島村は金玉均らの決意を聞くと、驚くことなく、よりすみやかな決行を勧めたという。・・(中略)・・金玉均が日本公使館を訪ねて竹添公使に計画を打ち明け、竹添から支援を約束されたのは、三日後の一一月七日のことであった。・・(中略)・・金玉均は、クーデターの直前まで、アメリカ公使フート、イギリス領事アストンの二人と頻繁に会合を重ねている。その間、金玉均はアストンにもフートにも、この清仏戦争期を好機として、内政改革と独立のために実力行使に出ることをほのめかし、あるいは決起が近いことを述べ、しきりに彼らの意見を聴取していた。・・(中略)・・

 当時の欧米列強は、東アジアではストレートに植民地化を目指すのではなく、・・(中略)・・英・米・独・仏などイギリスを中心とする”列強と日本・清は、国際戦略上の利益で大きな一致点をもっていた。いうまでもなく、ツァーリズム・ロシアの南下政策への警戒であり、具体的には朝鮮半島のロシアからの防衛である。”(続く)