2012年11月7日水曜日


日韓関係の改善のために(79)「自主独立を目指したクーデター(続)(20121107)

 呉善花著『韓国併合への道 完全版』には甲申クーデターの様子が詳しく書かれていて、この本は、これを読む者をして、その場に居合わせているかのような錯覚を覚えさせる。ともかく、このクーデターは漢城(今のソウル)に駐留していたシナ(清国)軍の介入により失敗し、竹添公使率いる日本兵150名はシナ(清国)軍側に味方する者も多数出る状況のなか、袁世凱率いるシナ(清国)兵1300名とよく戦い、戦死者1名、負傷者4名を出した。一方、清軍は53名の戦死者を出した。首謀者金玉均は多くの同志らを失った。その中には朴泳教、洪英埴、申福模、申重摸(シンチョンモ)、及び士官学校生徒7名が含まれる。以下、“”で引用する。

 “この甲申クーデターに直接参加、あるいは間接的にかかわった者は、一〇〇名から一五〇名と言われるが、斉藤実第五代朝鮮総督時代(一九二九年八月~一九三一年六月)に、九二名の「政変関連人等名簿」が記録されている(国立国会図書館憲政資料室『斉藤実文書』)。いくつか間違いが散見されるが、・・(中略)・・被殺三六 被囚二五(獄中死八) 逃亡一九 亡命一一(暗殺一) 自殺一 以上のうち約半数が、日本の陸軍戸山学校を卒業した士官・下士官およびその他の留学生たちであった。彼らの大多数が二〇歳前後の若者たちだったと思われる。また彼らの罪はその一族にまで及ぼされたが、彼らの親兄弟など家族の大部分は、政変直後、次々に自殺をとげている。金玉均の養父は国王の配慮で養子縁組が解消されて罪を免れたが、実父は捕えられて、金玉均とともに処刑を待つため、獄舎につながれた。”

 “一八九四年(明治二七)三月二八日、亡命先の日本から上海に渡った金玉均が上海のホテルで、李朝の差し向けた刺客によって暗殺された。そして翌四月、その屍体に対する凌遅刑が科せられ、五月には実父の金炳台が絞首刑に処せられた。
 その五月、甲午農民武装蜂起(東学党の乱)が起こり、それをきっかけに、日清両国が朝鮮半島に出兵して日清戦争が勃発する。”(関連:20121016日火曜日『日韓関係の改善のために(57)「開化・独立運動の志士・金玉均」(20121016)

 金玉均の屍体は凌遅刑という刑でバラバラにされた。呉善花著『韓国併合への道 完全版』には、その胴体が「大逆不道玉均」と大書きされた看板とともに揚花津港にさらされている写真が出ている。実父は獄中あって上海から運ばれてきた息子の遺体に対面したことであろう。そして凌遅刑でさらされた息子の胴体を見たかもしれない。金玉均の家族同様、朝鮮の自主独立を目指して立ち上がった若者たちの家族も悲惨な運命をたどった。
そのすべての責任はシナ(清国)との関係を断ち切れなかった李朝と閔妃一族の「利己心」にある。世界の独裁国家は皆、「自分たちの利欲」のため政治が行われている国々である。其処には真の民主主義も人道主義もない。(続く)