2012年11月22日木曜日


日韓関係の改善のために(94)「日清戦争への道(続)(20121122)

 1894年(明治27年)9月、日本軍が平壌を占領したことにより朝鮮が直ちに「自主の邦」にはならなかったが、朝鮮半島からようやくのシナ(中国)の勢力が一切無くなった。李氏朝鮮が始って以来実に520年ぶりである。初代李氏朝鮮王は高麗王の臣下の武将であり、女真族の血を引いていると言われる。満州族は女真族であった。高麗王は旧高句麗の大族の末裔だと言われるが最近になって漢人(漢族)の末裔であるという新説がシナ(中国)の研究者によって出されているという。(参考:Wikipedia

 日清戦争は大日本帝国海軍がシナ(清国)北洋艦隊を全滅させ、鴨緑江を越えて満洲(清)に進入した第一軍(司令官山県有朋陸軍大将)と遼東半島に進入した第二軍(司令官大山巌陸軍大将)の陸軍が首都北京に迫ろうとしたとき、シナ(清国)から講和の申し込みがあって終結した。以下、岩間 『決定版 大東亜解放戦争 上巻』(創栄出版)より“”で引用する。

 “講和談判は下関の春帆楼で、我が国全権伊藤博文、及び陸奥宗光、清国全権李鴻章、李経方父子の間で行われ、明治二十八年(一八九五年)四月十七日に調印された。内容は
   清国は朝鮮国が完全無欠の独立自主の国であることを承認する。
   清国は遼東半島、台湾全島及び澎湖諸島を永遠に日本に割与する。
   清国は軍費賠償金二億両(テール)(邦貨約三億円)を支払う。
   日清間の一切の条約は交戦のため消滅したので新たに通商航海条約を結ぶ。
   本条約批准後、直ちに俘虜を返還する。清国は送還された俘虜を虐待あるいは、処刑せぬこと。
これが日清講和条約の骨子である。だが、この直後に我が国は青天の霹靂(へきれき)に見舞われることになった。条約に対する三国干渉であった。(中村  「大東亜戦争への道」”
 
  善花 著『韓国併合への道 完全版』からも“”で引用する。
 下関条約が結ばれた直後に“ロシア・ドイツ・フランスが、日本が戦利として得た遼東半島の清国への返還を要求し、日本はこれに屈して遼東半島の領有を放棄する。(三国干渉)。後に三国が日本への干渉の代償として清国から、遼東半島をはじめとする各地の利権を得たことは言うまでもない。

 ただ、下関条約の第一条で、中国と朝鮮の宗属関係を廃棄して朝鮮を「独立自主の国」とし、それに伴って旧来の「貢献典礼」を廃止すると宣言されたことは、まさしく朝鮮半島の歴史にとって一大画期をなす出来事であった。”(続く)