2009年7月16日木曜日

鯛汁(20090716)

男の女房が美容院に行った帰りに、その美容院の近くのスーパーで大きさ30センチ以上もありそうな大きな鯛を買ってきた。そのスーパーはそこからそう遠く離れていないところにある大型スーパーに対抗して、品質の良い野菜や魚などを安い値段で売っている。大型スーパーの購買システムではなかなかできないことであろうが、地産地消の理念で地域の農家が生産している野菜を仕入れ、また特別なコネクションがあるのであろうか新鮮で良質な魚を仕入れているようである。女房はよくその店で野菜や魚などを買って来る。
鯛は鯛味噌にするため初め魚焼き機で焼き、そのあと肉の部分だけをむしりとって、予め調理してある味噌の汁と混ぜ合わせすり潰す。そのようにして完成した汁を暖かいご飯の上にかけて頂くのである。これはとても旨い。
女房から「手つだって」と言われて男は焼きあがった熱い鯛の身を箸やフォークで丁寧にむしり取った。この鯛汁を女房はよく作る。そのたびに女房は自分が小さかったころ祖父母や叔父叔母に育てられていたときの大家族の夕食の様子をよく語っている。
女房の祖父は人望厚く、頼まれて幾組もの仲人を務めた。結婚式があるたびに、祖父、祖母それぞれ一匹づつの鯛を貰って帰った。それをその当時若い嫁であった叔母が鯛汁にするのであるが、なにせ10人を超える大家族であるので、たった2匹の鯛を鯛汁にするためには、汁をできるだけ多くしなければならない。必然的に鯛の味は薄くなる。その時に比べ、今既に老境の女房が作る鯛汁は鯛の身が沢山詰まっていて味の濃いおいしい汁である。
女房の祖父母には男4人、女3人の子供がいて(間に無くなった子もいたかもしれない)一番上と一番下の間には年が20歳ぐらい離れていた。そういう家族の中で女房はその子たちとは実の兄弟姉妹の関係ではなかったが一番年下で、実の妹のように可愛がられていた。女房の母親は当時4歳だった女房を実家に残し再婚した。以後女房が17歳になるまで母親と女房の姓は別々であった。しかも祖父母の大家族の中で女房の姓は母親の死別した夫の姓のままであった。子供の時は年がそう離れていない叔父さんや叔母さんたちと兄弟姉妹のように、遊ぶ時はいつも一緒であった。というよりは、その叔父さんや叔母さんたちからよく遊びに連れて行ってもらっていた。三番目の叔父は当時中学生であったが雀などをとりもちで捕まえるのが上手で、またゴム銃で鳥を撃つのも上手だったらしい。
女房と年がそう違わない食べ盛りの叔父は当時子供であるから食べることには遠慮がない。そういう中で一番年下の女房は小食で祖母が「これはM子の分だからね」と注意しないと、女房の口に入らないうちにおいしいものが無くなってしまう。学校に行くときには女房は子供ながら顔色をうかがいながら、旅行代の積立か何か学校に収めるお金を祖母から貰っていた。女房は自分が子供であった頃のことを思い出しながら鯛汁を作っているのである。男も女房のそのような気持ちが分かるから、丁寧に鯛の身をむしり取り、今宵の食卓のことなどあれこれ会話する。
そうしながら男は、この鯛汁のことで俳句か短歌を創りたいと思った。男は若い頃‘五星’という俳号で職場の俳句のクラブに入っていた。その作った句が褒められて今でも鮮明に覚えている。「風除けに 雀の夫婦 寄り添いて」「チューリップ 赤い花びら 高く載せ」などである。短歌はまだ創ったことがない。しかしこの鯛汁を題材に創ってみた。「薄延べの 鯛の味汁懐かしみ 鯛汁(しる)拵えつつ 歳月思う」

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