2009年7月24日金曜日

陶芸(20090724)

男は一昨年暮れ、X陶芸スクールの自由制作教室に入り、昨年夏から秋にかけて同スクールの手びねり初級と中級コースを出て、今年4月から電動ロクロ初級と中級コースを出、再び自由陶作教室に戻った。男が電動ロクロのコースを出たというので、自由制作教室のメンバーは男が如何に上達したか興味津津であった。男は「電動ロクロは機械に自分がコントロールされているようで、どうしても馴染めなかった。」と本心を打ち明けた。それでも「菊煉りは上手くなったでしょう」とか「お手並み拝見」とかいろいろ言われるので、「いや、菊煉り3年と言うし、そう簡単には上手くならないですよ。」と答えておいた。
楽白を1kgずつ2個求め、早速荒煉りし、菊煉りしていたら、Kという30代の女性の先生が男の下手さを見かねて「手はこのように90度にし、押す時は左手も押すようにするのです」と実地にアドバイスしてくれた。男は一応電動ロクロの初級・中級を終えているので、ある程度のことはできる。土殺しをし、何度か失敗しては土を練り直して再利用し、K先生にちょっとアドバイスを貰ったりしながら、お惣菜を入れる深めの皿を大小2個作ってみた。残った土で小さな花瓶を創った。来週は土を3個、3kg求めて、同じサイズのお惣菜用深皿を2個創ろうと思っている。男がそのような皿を創るのは、創った作品を嫁たちや近所の懇意にしている人たちにプレゼントしたいためである。電動ロクロだと同じ程度のサイズのものを一度に何個もつくることができる。しかし形は均一に整うが手びねりのような味はない。男はいろいろ個性のある手びねりの方が好きである。
男は以前手びねりで創った皿や花瓶を二人の嫁たちにプレゼントしている。今度は電動ロクロで創るものをプレゼントするつもりである。それは、男が誕生日などに嫁たちからプレゼンを貰うので、そのお返しの意味もある。同じようなものを34個創ってあるので女房が「好きなものを持って行きなさい」と言いながら、なるべく良さそうなものを取って行かせる。従って家に残っているものは出来が悪いものばかりである。それでも男が創ったものが日常の食器としてよく使われている。
男は陶器を創る時は先ず形を重視して創っている。見た感じでなんとなく気に入るような形になるようにしている。次に削りが重要である。全体としてなんとなく味があり、素朴な美しさがあるように削る。抽象的な刻みを入れたりする。単純、素朴、飾りっ気なし、小細工や技巧なし、それでいて味がある、そのようなイメージの形にする。男は余分なものを一切そぎ落としたものが好きである。
芸術作品を創るには技術が必要である。また繊細さも根気も必要である。男は根気はあると自負するが、繊細さには欠けている。第一そのような神経をすり減らすような作業は嫌いである。従って、男の性格から見ると、男は芸術作品を創ることはできない。
男は以前、自分が創る陶芸作品をヨーロッパの展示会に出品したいと考えたこともあったが、今はその気は全くない。家庭で使う実用的なものを創り、人にプレゼントして喜んで貰えればそれで十分だと思っている。ごく稀に、たまたまヨーロッパなど外国での発表会に出品できるような素晴らしいものができることがあるかもしれない。しかしそれは初めから意図して創るものではないので、家に遺しておきたいと思う。
武蔵が晩年描いた一枚の絵、枝先に一羽の鳥がとまっている絵、その絵のように、男は自分があの世に逝った後、後世の者が評価してくれるようなものが出来ればよいのである。

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