2009年7月25日土曜日

伴侶を亡くした人達の心の傷(20090725)

テレビで伴侶を亡くした人達のことを取り上げた番組を放送している。ペギー葉山もその一人としてゲストで出演している。伴侶を亡くし心の傷を負っている人たちは、皆一様に自分を責めている。その苦しみから抜け出したいと努力はしているが、なかなか抜け出せないでいる。それは過ぎ去った日々のことが忘れられないからである。

昔戦国時代、武将たちは死を覚悟して妻子と別れ出陣した。武将に率いられた兵たちもそれぞれ家族があり、今生の別れと思いながら家を出た。戦前もあちこちの家でそのような状況があった。出陣式の人前では立派な態度を見せ、自分が死んだあと家族が後ろ指をさされないように心がけた。男たちは集団の中に入り、毎日集団で生活を送るようになって活動している間は、家族のことは全く忘れてしまっている。自分が今このようにしている間に、妻はどうしているかなど思いもしない。戦地で自分はここで死ぬことになると思った瞬間、愛する家族のことが頭によぎるだろう。戦場で「お母さん」と叫んで死んだ兵士のことが語られている。特攻隊員の遺書を読むと誰でも心を打たれ、胸が詰まる。

そのような戦時には自分の周囲に同じ境遇の人たちが多いから、夫や子を失っても「仕方ない」と諦めもつくだろう。男の今94歳になる叔母はビルマ戦線で夫が戦死している。男が訪問介護のNPO法人の代表として自己研鑚のためホームヘルパーの講習を受けているとき、実習先のおばあちゃんは、娘を空襲で失って黒こげになった遺体が娘だと思い受け取ったが、後でそれは違っていたことがわかった話を淡々としてくれた。

平和な今の時代、毎年交通事故で何万人もの人が亡くなっているが、ガンなどの病気や災害事故で愛する家族を失う人は多い。遺された人は、「あのときこうしてあげたらよかった」と自分で自分を責め続けている。男は女房に「皆、自分を責めて苦しんでいる」と言ったら、女房は「苦しんでいる人たちは皆情が厚い人たちだと思う」と言う。そう言われて男は、自分が女房に非難されているように思った。女房は本当に心が優しい人柄である。情も深く、男に最善を尽くしてくれている。子育ての時は、本当に必死の思いで一生懸命2人の男の子を育て上げた。「思い残すことはない」といつも言っている。

男は、仏教というものを今朝テレビで出た人たちはどれほど理解しているだろうかとふと思った。仏教には救いがある。人それぞれ理解のレベルがあり、信心の内容も違いがあるが、まず仏門をくぐることが救いの第一歩であると男は思う。誰でも自らが意識していないが自然に仏の方便を現している。いろいろな学者先生が仏教を解説しているような能力を微塵も持ち合わせていなくても、他者に喜ばれることを行うことはできる。テレビに出たある一人の老人は、自分が妻のために綿密に旅行計画を立て、妻を旅行に連れて行ったときのように、伴侶をなくした人達のグループの中で旅行の幹事役を買って出て、その人たちに喜びを与えている。愛他が仏門に入る第一歩であると男は思う。愛他は同時に自愛でもある。その老人は旅行の幹事役をして自ら生きがいを得ている。

愛他は押し付けではない。意識して他を愛する必要はない。自分の身近な人、自分とすれ違った人、電車の中でたまたま隣に座った人、自分と何かの形で縁がある人に対して、その時その時の無意識のうちに善の行いができればそれでよいと男は思う。

先ずは笑顔で、相手が子供であろうとお年寄りであろうと「おはようございます」「今日は」の日常の挨拶を言い「有難う」「すみません」を言う。それが善の行為の第一歩である。