2009年7月23日木曜日

仏教の勉強(20090723)

 男はよく思うことがある。それは、一事が万事、男や女房の望み、願っていた通りに事が運ぶのを実感することについてである。それは、仏教の経典に書かれている神通力であるのではないかとよく思う。一事が万事、望み、願っていた通りに事が運ぶのは、たまたまそうなったという偶然のことかもしれない。しかし、男はそれは自分たちが見えないある力が働いてのことであって、偶然のことではないと神仏に感謝している。

 例えば、京都の宿は山鉾巡行の日であったので、普通はなかなかそのような安さでは取れないとその宿をたまたまインターネットで探して取ってくれた息子は言った。バスも新幹線も電車も運良く接続の時間を取らずに、しかも良い席に座れた。かんかん照りの暑さは感じず、涼風、雨上がりの心地よさを感じた。その次の日だと大雨に遭うところだった。女房もそうであるが、お天気に恵まれれば一般に女は「わたしは天気女なの」と自慢する。しかし、もし自然現象が人の徳性によるものならば、一方だけがたとえ天気女であったとしても一方が雨男であれば、どちらか強い方の影響を受けることになるであろう。

 男は昔買っておいたいろいろな仏教関係の書物を取り出して、精読してみることにした。男にはそのようなことができる時間的余裕があることを神仏に感謝しなければならないと思う。男の年になってもそのような時間を持てず、毎日あくせく働かなければならない人が沢山いる。男は決して裕福ではないが、古の仏教修行者たちのように仏教を学ぼうと思えばいくらでも学ぶことができる余裕がある。その当時に比べ、今はいろいろな学者が研究して出した本や、解説書も沢山ある。勉強する気さえあれば、男の身の回りにはそれこそ豊富な資料が転がっている。数々の宝が転がって山積みになっている。

 男は手始めに『新訳仏教聖典』(大法輪閣版)を読むことにした。これは全ページ720ページの書物である。男は仏教の本が若い人たちの間でよく読まれるようになれば、世の中は良くなると確信している。問題は仏教関係の本の中身である。世尊とか釈尊とかいろいろな弟子たちの名前は、2500年前の人の名前を古代インド語から漢語に翻訳され、そのまま日本に伝わったものであるから、若い人たちには馴染みにくいのではないかと男は思う。

 例えば、聖徳太子が尊んだという勝鬘経に書かれている勝鬘は波斯匿王と后・末利夫人の娘の名前である。古代インドの発音では勝鬘はショーマンではなく、波斯匿王はハシノク王ではなく、末利夫人はマーリー夫人ではなかった筈である。男は昔、中国語を勉強したとき購入した『簡約 現代中国語辞典』(香坂順一編、光生館)を取り出して調べてみた。すると現代中国語の発音でカタカナで中国語の発音の四声を考慮して表記すると、勝鬘はシェンマンである。波斯匿は、ボーシー(ン)ニである。末利はモオリイである。しかし、名前を漢字ではなく、カタカナで表記したほうが親しみやすいと思う。

 女房は男がこのような勉強をし、毎日ブログを書いていることの意味を知らない。女房は男がただパソコンが好きで、朝食の時間も惜しむほど忙しげにしていることの方が変であると思っているに違いない。苦情を言う女房に男は「時間がなかなかとれないのだ」と言った。男は女房への愛情の量をできるだけ多くするように心がけながら、一方では自分自身の精神の向上のため、パソコンを活用し、このような随筆(っぽい)ブログの公開をしているのである。古の修行僧が大変な集中努力で学びとった仏教を、男は短い時間で、しかも左程苦労することなく学ぶことができることを感謝しなければならないと思っている。