2009年10月12日月曜日

戦争体験のない世代(20091012)

 阿川弘之氏は昭和18年に海軍少尉に任官し軍令部勤務をしている時、中国語が多少できたということで対中国諜報担当部門に配属され、翌年中尉に昇任した後中国にあった部隊に転勤となり、福岡の雁の巣飛行場から軍用機で上海に赴任したという。その阿川氏は福岡まで汽車で向かう途中、「自分も二度と帰って来ることができないかもしれないけれど、両親が果たしていつまで元気でいることができるだろうか」という想いで両親に別れを告げるため郷里の広島に立ち寄り、一晩だけ家に滞在したという。

 阿川氏は旧制広島高等学校時代テキストとして使っていた新潮文庫版の万葉集一冊をリュックに入れて中国に渡ったという。広島に新型爆弾(原爆)が落ちたという情報に接し、両親は駄目だっただろうと思っていたが、終戦後両親は奇跡的に生きていたことを知ったという。自宅には多くの蔵書があったが原爆で全て失い、万葉集一冊だけが残ったという。

 男は女房と一緒に録画していたNHK「日めくり万葉集」をプレイバックして観た。その中に選者が阿川弘之氏の次の歌が紹介されていて、阿川氏がその歌への思いを語っていた。
 
 父母(ちちはは)が 殿(との)の後(しりへ)の ももよ草(ぐさ)
      百代(ももよ)いでませ 我(わ)が来(きた)るまで 

 これは巻二十・四三二六番の歌で遠江国の防人 壬生部足国(みぶべのたるくに)という人が残した歌である。その意味は、「父と母とが住む屋敷の裏手に生える百代草。その名のように長寿でいらしてください。私が戻るその日まで。」というものである。(NHKテキスト『日めくり万葉集vol.10』より引用)

 男は終戦時9歳の小学校2年生だったし、朝鮮にいたので空襲の経験もない。軍事教練の経験もなく、防空壕への避難訓練はしたことがあったが戦争体験は全くない。まして今の若い人たちは親の子供時代のことは知らず、平和で豊かな家庭環境で育ってきた人が多い。戦地に行く途中「これが今生の別れとなるかもしれない」という思いで親に一目会うという気持ちは想像できても実感はできない。この平和はいつまでも続くと思っている。

 しかしこの地球上から一切の戦争がなくなる日がやってくるのはまだまだ遠い未来である。日本はかつて大東亜共栄圏を目指した。今日本はアジア共同体を目指して行動を起こしている。その構想の中に中国は入っているが北朝鮮は入っていない。中国が友愛の精神で輪の中にはいってくれれば日本にとって好ましいが、もし覇権を目指しているなら危険である。北朝鮮が核兵器への野望を捨てるまで戦争の危険は解消されない。

 この度アメリカのオバマ大統領はノーベル平和賞を受賞することになった。彼は核兵器の廃絶や地球温暖化防止に向けて行動を起こしたことが評価された。この受賞がこの地球上から一切の戦争がなくなる日を目指す人類の歩みの第一歩になればよいと男は願う。

 しかし、日本の平和が脅かされる危険は無くなっていない。日本は他国を攻撃する兵器は一切持たず、ハリネズミのような武装で専ら防衛する能力を十分高めておかなければならない。孫子の兵法にもあるように「百年兵を養うのは、たった一日の戦いに備えるため」である。そのことを決して怠ってはならない。そのようなセンスを全ての政党は共有するようにしてもらいたい。国の行く末を憂える男はそう願っている。