2009年10月22日木曜日

 姉(大伯皇女)と弟(大津皇子)(20091022)

今からおよそ1300年の昔、天武天皇の子供として歴史に残る二人の姉弟がいた。二人とも天智天皇の孫である。663年、朝鮮の白村江で日本軍が大敗した当時、二人は父・大海人皇子(おおあまのみこ)と母・天智天皇皇女とともに九州にいたという。
姉・大来皇女(おおくのひめみこ、大伯皇女とも書く)は12歳の時、伊勢神宮の斎王(さいおう、いつきのみこ)として、五百人もの官人・女官等を率いて伊勢に下った。斎王は伊勢神宮または賀茂神社に巫女として奉仕した未婚の内親王または女王(親王の娘)のことである。
伊勢神宮に奉仕した斎王の御所である斎宮(さいぐう、いつきのみや)は南北朝時代の1334年にその制度が無くなるまで続いた。『日本書紀』によれば斎宮は崇神天皇(すじんてんのう、在位紀元前97-紀元前29年)の時代に始まっている。
大伯皇女は、天武天皇崩御後686年わざわざ伊勢まで姉に会いに来た実弟・大津皇子(おおつのみこ)と別れたあと次の歌を作っている。その歌は万葉集の105番と106番に収録されている。大津皇子は姉に会った後謀反の罪で処刑され、24歳の若さで薨去している。謀反は、天皇と皇位継承資格者しか許されない伊勢神宮への奉幣を大津皇子が斎宮・大伯皇女の手引きで行ったことを咎められたという説がある。
大津皇子が処刑された時、妃の山辺皇女は「髪を振り乱して裸足で走り、殉死した。それを見た者は皆嘆き悲しんだ。」と日本書紀に書かれている。

  吾勢祜乎 倭邊遣登 佐夜深而 鷄鳴露尓 吾立所霑之
  (わが背子を 大和に遣ると さ夜深けて 暁(あかとき)露に わが立ち濡れし)
弟を大和に送り返そうとして夜が更け 暁の露にわたくしは立ち濡れてしまった。

  二人行杼 去過難寸 秋山乎 如何君之 獨越武
  (二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を いかにか君が 独り越ゆらむ)
二人で出かけても行き過ぎにくい秋の山道を どんな風に君は独りで越えているのであろうか。 (注:口語訳は2首ともNHK『日めくり万葉集』による。)

弟の死を知った姉は弟の処刑一月後に退下し都に帰った。彼女は702年に41歳で薨去している。生涯独身で、愛する弟を失った悲しい人生であった。1300年も遠い昔、天武天皇の御子である姉と弟にはそのような悲しい出来事があったのである。
男は今日(16日)、女房とNHK『日めくり万葉集』をプレイバックしてこの大伯皇女の歌を観賞した。男はこの姉弟のことについて感じるところがあり、いろいろ調べてこの記事を書いた。

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