2009年10月13日火曜日

世の中のために何ができるか(20091013)

男はこのごろ時々考える。「自分は世の中のために何ができるか」と。今朝日曜日の番組で東京都墨田区界隈の散策で職人たちの仕事ぶりを紹介していた。箸造りの職人はお客さんから頼まれた箸の修理をしていた。男は「あんな折れた箸を修理して短くなってしまったものでも愛着があるんだね」と言ったら女房は「人それぞれよ」という。男は「俺なんか箸はプラスチック製でもいいんだ。実用的でありさえればね。」と言った。

男は勿論伝統的な美しいものにも関心がある。結構ものごとにこだわる方である。しかし粗野と言えば粗野、例えば立派な和風邸宅で立派な庭園、立派な客室、伝統芸術の香り高い置物や飾り物などなど、そういったものを所有していて、他人に誇りたいとは思わない。もともとそのようなところに育ってきたわけでもないせいかもしれないが、男は実用的で品質が良くて質素なものが好きである。余計な飾りは不要と思っている。伝統的な美しいものは、展覧会などで見るだけで十分だと思っている。

昔男が現役のころ、ある役員で男と年が殆ど変わらない人のお宅にコントラクトブリッジを楽しむため訪れたことがある。コントラクトブリッジは四人でお互い向かい側の人とペアになって楽しむカードのゲームである。その方が「これは江戸時代の古い湯のみです」と一個の湯の茶碗を見せてくれたことがある。男はそのとき「へえ、Sさんはそんなものに興味があるんだ」と思ったが、自分がそんなものを集めたいとも、まして来訪者に見せて自慢したいとも思わなかった。それこそ人それぞれである。

朝見たテレビ番組で90歳をこえる老婦人が金細工を業として働いている様子が映し出されていた。その婦人は「人はさびしい、さびしいとよく言うが私はちっともさびしくない」という。その仕事は亡き夫とともにしていた家業であった。その婦人は今でも現役で働いて世のために役立っている。男にはそのような業はない。毎日が休日のようなものである。なにかボランティア活動をすることもできるが、そのため煩わしいことに関わるのはご免である。せいぜいユニセフやUNHCR(国連難民支援活動)に貧者の一灯を捧げるとか、街頭で赤い羽根募金活動をしている子供たちを見帰ると僅かばかりの寄付をする程度である。

男はかつて地域で災害ボランティア組織を立ち上げることに中心になって関わったことがある。そのとき実際にある災害訓練会場で台上にたち指揮・案内をしたこともある。またその関連で、ある駅前で仲間とともに地震災害の街頭募金活動をしたこともある。70の声を聞くようになって、論語の、70にして己の欲するところに従い、則を超えないようにするため、地位も名誉も金も要らない、と宣言して社会的諸関係を断つようにした。

なにか組織に入れば必ず煩わしさが伴う。自分の時間も制限される。世の中にはそれでも一生懸命活動し、金も使い、○○会長とか名誉職に就き、○○賞を受賞してその額縁を仏間に飾り、大金を寄付して記念碑にその名前を刻み、或いは自分の銅像を建てて自慢する人がいる。男はそういう人もこの世の中には必要であると思う。そういう人たちがいないと世のなかは良くならない。そう人たちには社会的な栄誉が与えられて然るべきである。

男は年からしてもはや遁世の境遇である。それが男の定めである。その代わり男と女房の子たちは、男が為し得なかったことを次々為している。人の世は一代限りではなく、ずっとずっと続くものである。男はその子、その子の子供たち、その子供の子供たちに遺してゆくべきことを遺そうとしている。それが今の男の役割であると自覚している。