2009年10月3日土曜日

663年朝鮮半島白村江の戦い(20091003)

 江戸時代の儒者・頼山陽が書いた『百済を復す』という詩がある。男は『日本書紀』などの歴史書をもとにその詩の講釈を試みた。それは、今を生きる日本人の多くがこの戦いのことを知らないであろうと思うからである。

 歴史は繰り返すと言うが平成21101日付の読売新聞一面大見出しに、「「友愛の海」囲い込み 尖閣に調査船 ガス田で平然と作業」と出ていた。男は若い世代の人たちはこのことについて無関心ではいられなくなっているのではないかと思っている。

 世界中の何処の国も自国の利益を求めて鎬を削り合っている。それは、あたかも野生の猛獣たちが獲物を求め、オスはメスを奪い合って争うが如くである。そこでは強いものだけが生き残るのである。ウイルスから猛獣まで、人間も自らの種の存続、すなわち「自己保存」を求めている。17世紀のオランダの汎神論哲学者スピノザは著書『エチカ』でそう述べている。それが自然の実態なのだ。人間も宇宙・自然に一部である。その法則からは逃れられない。

 下記に頼山陽の『百済を復す』の詩文と男の講釈を示す。船の数の表し方は、日本(当時‘倭’)の船は小型であったので歴史書では「隻」ではなく「艘」と書かれている。しかし男はこの講釈では敢えて「隻」と書いた。倭軍の船の数は当時の中国側の歴史書によるもので「千艘」は多分非常に多くの船という意味であったと思われる。

 ともかく今から1335年前の西暦663年、わが国はそれまで何百年もの間保持し続けていた朝鮮半島における権益を守ろうとして立ち上がったのだ。しかし当時の唐・新羅連合に大敗し、一切の権益を失ってしまった。その後唐との交流は何十年間も途絶えていた。遣唐使の交流は戦後処理が終わった669年以降33年ぶりのことであった。

 その間、唐と組んで朝鮮半島から日本軍を追い出した新羅は676年に唐軍も追い出し、朝鮮半島を統一した。それが古代のわが国と朝鮮半島との間の歴史である。現在、北朝鮮は朝鮮半島の統一を目標に、拉致、麻薬、ミサイルなどあらゆる手段を考え、行動している。中国もロシアもそういう状況の中、朝鮮半島における権益の確保を秘かに狙っている。

 明治時代、日本は朝鮮半島から中国(清王朝)やロシアを追い出し、半島全体に鉄道網、通信網、水力発電などのインフラの整備をし、教育制度を確立したが、敗戦により再び朝鮮半島から手を引いた。強固な日米同盟があるものの竹島は韓国に不法占領され、北朝鮮からは核ミサイルの脅しをかけられ、尖閣諸島は中国が公然と自国領であると主張してわが国の領海・領土への侵入を試みている。

 男は日本の政治家たちに歴史をよく勉強し、歴史から教訓を得て、しっかりした外交をして欲しいと思う。官僚たたきに遭っている外務官僚たちには、しっかりとした精神を持って欲しいと思う。それが、次世代に対する務めであると思う。


百済を復す         頼 山 陽

唐は百済を取らむと欲し    吾は百済を復せむと欲す
怕婦の男子是れ皇帝      佳賊将となりて呑噬を逞しうす
汝が兵食を資け汝が行を護る  奈すれぞ汝自ら万里の城を壊りしや
唐と吾と孰れか得失      忠義の孫子海を踏みて来り
長く王臣と為りて王室を護る


  頼山陽の作詞『百済を復す』 男の講釈   

わが国の第4次遣唐使(659661年)が唐に滞在中、
唐は皇帝が高宗で皇后が武則天のとき6603月、
唐の将軍・蘇定方は13万人の兵をもって黄海を渡り百済に向かった。
新羅の武烈王は自ら軍を率いてこれを出迎えた。
唐軍は仁川(インチョン)近くの錦江(クムカン)を遡り、
新羅軍とともに百済の都城を包囲した。

将軍・蘇定方は郎将・劉仁願に兵1万人を授けてその都城に留鎮させ、
新羅兵7千人をこれに副え、
百済による都城奪回に備えさせた。
ソウルは当時唐の都城があったところ。
クムカンは当時白村江があったところ。

高宗の寵愛厚かった武則天は前皇后を追い出し亡きものにさせ、
高宗に代わって政務を執り、
新羅の要請を容れて百済討伐の軍を派遣し、
後には自ら皇帝になったこわいお方。

昔はわが国と友好関係にあったのに
北の高句麗や隣の任那にちょっかいを出すようになった新羅は、
好機到来とばかりに百済に攻め込んできた。
折しも百済王・豊璋(ほうしょう)が
忠臣・鬼室福信(きしつふくしに)を処刑したことを知った新羅は、
さらに勢いづき猛然と百済に襲いかかって来た。

百済が滅びれば任那も危ない。
わが日本は未曾有の危機に直面している。
時の天皇・斉明天皇(665661年)は詔(みことのり)し、
駿河国(現在の静岡県の大井川の左岸で中部と北東部の地域)に命じて船を造らせ、
百済を救い新羅を討つ準備にとりかかった。

その天皇は崩御され皇太子・中大兄皇子が即位した。
天智天皇(661671年)は百済を救うため、
総勢42千人の官軍を組織させた。
官軍総司令官には安曇比邏夫連(あずみのひらぶのむらじ)。
新羅を経て幾度も唐を訪れたことがあり、
彼の地の情勢には詳しいと考えられたお方。

駿河国の廬原君臣(いおはらのきみおみ)率いる健児1万人余りがまず白村江に向かい、
近江国(滋賀県)の巨勢神前臣訳語(こぜのかむさきのおみをさ)ら率いる
残り本隊27千人余りは新羅討伐に向かった。

唐新羅連合軍総司令官・蘇定方は名将であるが、
不条理な百済侵攻なるがゆえ、
賊将呼ばわりしたくなるような格好のよい男。
そのお方が部下の勇猛な将校・劉仁軌に、
戦船170隻と兵を授けて白村江に陣烈させてた。
この前線指揮官・劉仁軌は縦横無尽に兵を動かし、
蘇定方の期待に応えた。

わが水軍が白村江に集結したとき、
陸上には新羅の軍が待ち構えており、
海上からは唐の水軍が現れた。
悲しわが健児らは白村江で挟み撃ちに遭った。

近江の朴市秦造田来津(えちのはたのみやっこたくつ)は天を仰いで誓い、
歯をくいしばって戦い、
10人の敵を倒して戦死した。
他の健児らみな同様に奮戦し、
彼の地に散って逝った。

天象気象地形敵情を見誤った用兵の悪さか、
わが戦船400隻は火の矢の猛攻で焼き尽くされ、
海面はわが健児たちの血で赤く染まり、
船を失い溺れ死ぬ者も多かった。

豊璋よそなたは王子であったとき、
王子・善光とともにやむなくわが国の人質になっていたよな。
わが国はそなたたちに毎日豊かな暮らしをさせ、
そなたには太安万侶一族で神武天皇の血をひく女性を娶せた。
わが国そなたたちを賓客並みに処遇していたよな。

そなたの忠臣・佐平鬼室福信、
佐平は百済の最高の官位でわが国の大臣に相当する官位。
その佐平鬼室福信の要請に応えてわが国は、
そなたに百済の王位を継がせるべく矢10万本など武器や糧食などの援助をし、
大将軍安曇比邏夫に戦船170隻を率いらせてそのたの海路を護り、
5千人余りを付けてその他の陸路を護り、
百済のそなたの本郷まで送ってあげたよな。

それなのに百済の国王となったそなたは、
なぜ自らそなたの忠臣・佐平鬼室福信を、
諸臣の妄言を容れて処刑してしまったのか。
新羅から恐れられていた佐平鬼室福信は、
そなたにとって万里の長城のようにそなたの力になってくれた人物だったのだぞ。

そなたがそれほど暗愚で無能な人物とは知らなかった。
わが水軍が唐新羅連合軍に敗れたとき、
そなたは僅かな従者とともに高麗に逃げ去った。
そなたは唐の前線指揮官・劉仁軌に「偽王子」と蔑まされたのだ。

わが国は百済を救うため、
総員4万千人余りの健児らと戦船千隻をもって、
わが兵力を大きく上回る唐新羅連合軍と戦った。
その戦いにわが官軍は大敗してしまった。
百済の王族や貴族とその家族らや、
一般庶民ら合わせて数千人が
次々と海を渡ってわが国に渡って来た。

敗戦直後に王族・佐平の余自信(よじしん)や
貴族・佐平の鬼室集斯(きしつしゅうし)らとその家族たち700人余りが
戦いに敗れたわが健児らと一緒に引き揚げてきた。

翌々年以降その他の一般庶民の男女400人余り、
2千人余りと次々に、
自分ら調達した船でわが国に渡って来た。

わが国に渡ってきたそなたの国の王族貴族たちは、
百済での冠位に相当するわが国の冠位が授けられ、
百済での位階に応じてわが国の姓(かばね)と
大刀などの褒章が下賜された。
そなたが処刑した佐平鬼室福信の近親者・鬼室集斯にも
相応の冠位が授けられた。

百済から引き揚げてきた王族や貴族たちは。
皆わが国の朝廷の一員となって都で暮らすことができた。
その他の民も近江国や東国(武蔵)に居住地や耕作の田が与えられ、
異国の日本で安心して暮らすことができた。

後年百済に駐屯していた唐軍が
新羅軍によって駆逐された時も、
2千人もの人々がわが国に逃れて来ようとした。
その中には百済に残って居た唐の官人と、
唐に協力していた百済の貴族及びそれらの家族のほか
百済の一般庶民が含まれていたらしい。

戦に負けたわが国は、
對馬と壱岐に防人と烽火(当時の通信設備)を増強し、
對馬には城も築き、
そこをわが国防衛の最前線の拠点とした。
首都(当時は奈良)防衛も強化して、
周囲の要地に城を築いた。

2千人の難民らは47隻の船で百済を脱出し、
新羅の南の島にたどり着き、
長らが集まり今後のことについて相談した。
「對馬や壱岐の防人たちは我ら船団を見たら驚いて、
必ず射撃してくるに違いない。」
難民たちは結局わが本土を踏むことはできなかった。

未曾有の国難の時期の皇太子であり、
天皇であられた天智天皇は
よく臣民を統率され、
朝廷官僚の力を高めることに尽力され、
内政外交をよく進められた。
その御代に朝廷で最も力を尽くした内大臣・中臣鎌足は、
天皇から「藤原」姓と大職冠を賜ったが、
百済救援失敗の責任を感じつつ6681056歳でこの世を去った。

唐と日本とではどちらが得をし、
どちらが損をしたであろうか。

白村江敗戦後最初にわが国にやってきた王族貴族とその家族らは、
数年後近江国に居住地を与えられて移り住んだ。
後年その地に佐平鬼室福信の近親者・鬼室集斯を祀る鬼室神社が建てられた。
その神社は今もその地・滋賀県蒲生郡日野町にあって韓国との友好の証となっている。

鬼室集斯は大学頭(大学寮の長官)としてわが朝廷の子弟の教育に貢献した。
許率母(こそちも)は五経(儒学の経典)に明るく、
大友皇子の賓客となった。
軍事や薬学や陰陽で貢献した人も多数いた。

そなたの忠臣であった将軍・達率(百済国の最高の官位・佐平に次ぐ官位)の
憶礼福留(おくらいふくるや)や四比福夫(しひふくぶ)は、
わが国防衛の拠点・大宰府周辺の築城などにその持てる技術力を提供した。
四比福夫は後の天皇から「椎野連(しいのむらじ)」の氏姓を賜った。

そなたとともにわが国に入侍していたそなたの近親の王子・善光は、
敗戦で百済に帰ることもできなくなって難波(大阪)の地に住居を与えられた。
善光の子孫は後に天皇から「百済王(くだらのこきし)」の姓を賜り、
陸奥守などの要職を歴任し、
従三位の公卿にまで列せられた。

近江国や東国に居住地を与えられた一般の民らは、
それぞれその地になじみ、
数世代のうちに多くの氏・名字に別れ、
特に戦国時代以降日本全国に広がっていった。

このようにして海を渡ってわが国にやってきた百済の人々は皆、
わが国の同胞になり、
今日世界に冠たるわが日本国をともに造ってきたのだ。