2010年3月20日土曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(57(20100320)

ある合唱団の代表からその合唱団の20周年記念公演の案内状が来た。その合唱団の名前はフランス語で、日本語では「三人の友人とそれ以上」という意味である。その合唱団は私の中学校時代の友人(女性)が立ち上げ、自ら指揮している。このたび5年ぶりに演奏会を行うとある。彼女には年賀状以外連絡はないが、久しぶりハガキに一筆書いて出そう。
懐かしくもあり、今回は是非在京の同級生たちに声をかけて一緒に応援に行こうと思う。ただ、別府で行われる同級会に参加して帰ってきた翌日のことなので、少しきついところがある。でもこれが5年ぶりの、しかも合唱団創立20周年記念公演でもあるので、是非行かなければならぬと思う。お互い72歳、彼女がそのように活動していることは喜ばしい。
私と彼女は中学校時代の音楽の先生を通じた共通の思い出がある。その音楽の先生は美人であったが若くして他界してしまった。私はその先生が担任であった組に所属していた。教室の後ろ壁の上のほうにシューマン、シューベルト、モーツアルト、ベートーベン、バッハなどの音楽家たちの肖像画が掲げられていた。私はその先生の影響もあってのことだと自分では思うが、『新クラシックの快楽』とか『名曲観賞辞典』とか『音楽用語の知識』などを買ってたいして読みもせず書棚に飾ったままにしてあるが、この際それらを取り出してページをめくってみた。
彼女が指揮する演奏種目の作曲家についてそれらの書物に出ていない人がいる。荻久保和明とかW.アンドリーゼンとかF.プーランクなどである。そこでインターネットで調べた。作曲家の名前など調べて暇なんだなと思われそうであるが、調べてみると「ああそうなんだ」と分かる。分かって何に役立つか、いずれ忘れてしまうかもしれない。しかし、何も知らずに演奏会を聴きに行くよりは善いだろう。調べるのにたいして時間がかかるわけでもないのだから。それに久しぶり会う友人に対する敬意、礼儀でもある。
前にも書いたことがあるが、今ここに生きている‘私’という一個人は、可視出来る姿、物質としての‘私’だけではなく、可視出来ない私の心のありよう、意識、思考、精神としての‘私’もいる。さらに、その非可視の部分には、遠い過去から遠い未来までの大きなものがあり、その大きなものの中心に、それらの‘私’、つまり物質としての‘私’と精神としての‘私’がある。そしてそれらの‘私’を包み込む大きな非可視のもの、つまり遠い過去から遠い未来までのものは、宇宙の時間軸にそって動いている。‘私’を包み込む大きな非可視のものを一つの球体とイメージすれば、その球体が動いている。
この物質としての私、肉体としての私は朽ちて行くが、それは精神としての私とともに過去から受け継がれたものである。そして子孫を通じて未来につないでゆく。伴侶によって得られた私の子孫に伝わってゆく。それが生と死の有りようである。
ブッダ「真理のことば」は次の一つで終わる。次は「感興のことば」である。
425 前世の生涯を知り、また天上と地獄を見、生存を滅ぼしつくすに至って、直感智を完成した聖者、完成すべきことを完成した人、かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。

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