2010年3月22日月曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(2) (20100322)

「子供を社会全体で育てる」という理念は良いと思う。ただ、これまで誰も言っていないようであるが、子供を社会全体で育てるため5.5兆円もの国家予算を投入することになる以上、社会のためどのように子供を育てるのかという視点が是非必要であると考える。
その額よりも低い防衛予算を割り当てられる防衛省は、法律により国の安全を守る義務が課せられている。自衛隊員は「身の安全を顧みず任務を果たす」と宣誓している。しかしそれよりも多い国家予算を投入する教育の現場で、公的な義務が明文化される動きはない。
かつてのナチスドイツのヒットラーユーゲントのように、子供を国家の目的のために特別な教育を行うようなことは論外であるが、少なくとも反国家的ではない方向に子供を育てるという考え方は無くてはならないのではなかろうか?
国旗や国歌に対する敬意を示すことを教えることは最低限必要であるし、公衆道徳や隣人愛ということの大切さを実践的に教えることは義務付けられるべきではなかろうか?
権利には義務を伴うこと。学校や家庭内で皆で話合って決めたルールは必ず守らなければならないこと。そのようなことを一定のガイドラインに従って教育の現場で教え込むことは必要ではなかろうか?  
国会の論議をテレビで視聴していたら、北海道の教組は勤務時間中にFAXを使って国旗や国歌に敬意を表さないことを指導したという。新着任の校長にペーパーを示し、自分たちの言いなりになるようにチェック項目にチェックを入れさせ、署名させたという。これは北海道だけのことではあるまい。由々しきことである。
選択制夫婦別姓の法案の取り扱いは子供の将来を考えて慎重の上にも慎重に取り扱われるべきである。地下鉄サリン事件など凶悪な事件については、被害者のご遺族や重い後遺症に苦しんでいる人たちの小さな声に耳を傾けるべきである。政権政党は声なき一般大衆の思いに心を致し、選挙で勝つことだけを考えず、損得抜きに考えて行動して欲しいと思う。そうしなければ決して一般大衆の支持は得られず、選挙で大敗するであろう。

『感興のことば』第1章つづき;
3 諸のつくられた事物は実に無常である。生じ滅びる性質のものである。それらは生じては滅びるからである。それらの静まるのが、安楽である。
8 「わたしは若い」と思っていても、死すべきはずの人間は、誰が(自分の)生命をあてにしてよいだろうか? 若い人々でも死んで行くのだ。男でも女でも、次から次へと。
14 死刑囚が一歩一歩と歩んで行って、刑場におもむくように、人の命も同様である。
18 昼夜は過ぎ行き、生命はそこなわれ、人間の寿命は尽きる。小川の水のように。
20 「わたしには子がいる。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。しかし、すでに自分が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。

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