2010年5月8日土曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(49) (20100508)

公開中のブログ「吟詠」の5月の吟題『短歌 斎藤茂吉 作「あかあかと」』の吟詠を入れ替えた。私の誕生日を祝ってくれているメッセージカードに3歳の男児の孫の写真が添えられていたが、その孫の写真を見ながら感情をこめて吟じてみたら、ようやく自分で満足できる吟になった。
短歌「あかあかと」は、次のとおりである。

 あかあかと 一本の道 とおりたり
      たまきはる わが命なりけり

ブログに書いてあるが、私はこの歌を次のように解釈した。

(これまで生きてきた)自分の人生は、きわめて明るい一本の道のようなものである。
(この道は自分の魂の修行の道であり、自分の肉体の最期に向かう道でもある。
その道は自分の肉体が最期を迎えた後、自分の魂は新たな肉体にやどり、その世、「この世」から見れば「あの世」につづく明るく輝いている真っすぐな道である。)

私は人の一生はその生きている間だけにすべてがあるのではないと思っている。人は「縁」によってこの世に生を受けるが、その「縁」というものはその人の「前世」とは無関係ではないと思う。そして、今生きている「現世」の生き方次第で、次の世である「来世」の有り様が決定されるのだと思う。
孫には私のY遺伝子が確実に伝わっている。その遺伝子には私の先祖の遺伝子が含まれている。知能も性格も顔つきも体つきもその孫には私の先祖の特質が伝わっている。勿論、孫の遺伝子の半分は母方のものである。両方の家系の特質が孫には確実に伝えられている。
無意識に願っていたことが実現したという経験はよくある。たまたま偶然だった事象は、実はわれわれが認識できないことによって‘必然’的に起きた事象である、ということを現代の科学は100%確実に反証できるであろうか?私自身「これは不思議なことである」と思うことを度々経験して来ている。
親から子へ、子から孫へと伝えられる遺伝情報だけではなく、伝えられた遺伝情報以外に何か目には見えず、人が認識できない何かの力で刻み込まれる遺伝情報が必ずあるように思う。その‘何か’は素直な人間ではないと感じ取れないものではないかと思う。
ブッダ「感興のことば」第13章は18番まである。第14章「憎しみ」と飛ばし、第15章「念(おもい)をおちつけて」に移る。
1 ブッダの説かれたとおりに、呼吸を整える思念をよく修行して、完成し、順次に(諸の煩悩を)克服してきた人は、雲を脱れた月のようにこの世を照らす。

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