2010年5月9日日曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(50) (20100509)

 男のところに群馬のSさんから『郷研通信』という印刷物を送られてきた。序文に「郷学とは郷土の学問、即ち人を生み、育ててくれた山川や田畑、その野性的な逞しさと自然の生業の中で育った純粋な精神を持った人たちの中から、国の為に確固たる教養を持った人間を育てようと安岡正篤先生が始められた学問である」と書かれている。

 この150ページほどあるA4サイズの本を読み、意見や感想を送って欲しいと手紙が添えられている。今夜は詩吟の会から帰ってきたばかりであるのでとりあえず大雑把に目を通した。そしてこの本に接する喜びを感じた。

 というのは、この本には、安岡先生が孔子・孫子・準南子など古代中国の思想家や白隠・道元・稲葉黙斎など高僧・儒学者などの言葉を随所に引用し、人としての正しい生き方を教えておられるからである。もし浅学非才の私が自分自身の力で同じことをしようとするならば、先生の何百倍いや何千倍の時間とエネルギーを費やさなければやれないであろう。正に13世紀~14世紀に生きた夢想疎石が「一日の学問は千載の宝」と後世の我々に教えたとおりである。我々は安岡先生が先に学ばれたエッセンスをちょっと学ぶだけで、千年後まで意味のあることを、我々の心がけ次第で為すことができるのだ。

 今の時代、働き盛りの人たちは毎日が戦場の中にいるようで、‘戦闘’に必要な知識や技術を学ぶことが精一杯で、教養を身につける時間はなかなか取れない。知識・技術のレベルは高くても教養のレベルはそこそこである。極端にお粗末ではないが、しかし決して立派というものでもない。「それでよい」と言えばそれまでであるが、品格は一般大衆のレベルである。この国に一握りの教養が高い人士の層が広く分布しているとは言えない。そのことが今日のわが国の政治や行政の品格を落としていると言わざるを得ない。

 この本の終わりの方のページに安岡先生の言葉がある。「人格ができてくると、どこかしっかりと落ち着いて、和らかく、なごやかに、声もどことなく含み、響きがあって、その人全体がリズミカルになるものだ。」とある。この基準で自分自身を評価してみると私は全く出来ていない。もし男が若い時に今のような気持ちで学んでいれば、男は立派になっていただろう。73にもなってからでは余りにも遅すぎるのだ。男は自分自身を飾らず地で行くしかないし、熊つぁん八つぁんの地で行くことが男に最も似合っている。

 子どもの時から教養を身につけることができる環境にいることが重要だと思う。調べてみないと分からないが、わが国にそのような環境で子どもたちを育てる所があるだろうか?学習院幼稚園も何か問題がありそうである。大学生になり、社会人になってからでは遅いのだ。子どもの時の環境が最も重要であるのだ。

2 身をまっ直ぐに立て、心もそのようにして、立っても、坐しても、臥しても、つねに念(おも)いおちつけてととのえている修行僧は、過去についても未来についても、勝(すぐ)れた境地を得るであろう。過去についても未来についても勝(すぐ)れた境地を得たならば、死王も見(まみ)えないことになるであろう。