2010年8月11日水曜日

幸せは‘物’でなく‘心’(20100811)


男はかつて過去には目を向けず、未来ばかり見ていた時期があった。過去を振り返ることは好ましい生き方ではないと思っていた。ところが今は過去を振り返ることが多く、未来を見ることは無くなった。唯一自分の人生のゴールをどう飾ろうかということばかり考えるようになっている。夢や希望はない。―と言っても男の心は明るく、日々楽しい。

もし自分が不幸せな暮らしをしていたならば、そのような心境にはならないだろう。男は恵まれすぎているのだ。かといって、金銭的に豊かでもない。しかし貧乏でもない。セレブが住む地域に住んでいるわけでもない。立派な家に住んでいるわけでもない。家の中に自慢できるような豪華な家具などがあるわけでもない。女房が高価な宝石をもっているわけでもない。家の中は簡素に綺麗に整えられているが、至極質素なものである。それでいて十分満ち足りているのである。よい家族、親戚、友人に恵まれて何一つ悲しいこと、さびしいこと、嫌なことがないのである。

男は物質では決して満たされることは無いと確信している。愛、思いやり、心の温かさ、平和、‘物’ではなく‘心’が幸せの根源であることを確信している。

テレビで‘孤独死’した人の遺留品の後始末やその人が住んでいた家の清掃を行う会社の仕事が紹介されていた。人は‘孤独死’と一言で片づけるが、決して孤独ではなくある日突然独りで死んだ人もいるだろう。ただ一般に家族と離れて独りで暮らす人にはそれなりの事情がある。人は明るい家庭で周囲の愛に恵まれて暮らしておれば‘孤独死’などしない。100歳前後の長命な人は必ずそのような明るい、愛に満ちた家庭で暮らしている。

では、何故世の中には暗い、さびしい、愛に飢えた家庭があるのだろうか。ある日突然襲ってきた不幸に見舞われる家庭があるのだろうか。それは偶然のことなのだろうか。

男も今後生きている間に不幸身見舞われないとも限らない。だから不幸になりそうな原因はすべて取り除くようにしている。とっくの昔車も手放した。「君子危うきに近寄らず」で、齢とって身体的・生理的能力が若い時に比べて相当落ちているので、車の運転はやめたのである。しかし、観光バスに乗っていて事故に遭わないとも限らない。

観光バスツアーも格安の値段だからといって飛びつくと、運転手が何日間もたった一人で長距離運転しているから安いことに気づく。それも毎朝の出発が早く、疲れがとれないだろう。危険である。だから男はもうそのようなツアーには参加しない。

格安の航空会社も老齢の飛行機の機体の金属疲労が心配である。パイロットの技量が心配である。会社の安全管理体制が心配である。安ければ良いというものではない。

そのようにして最新の注意を払っていても、ある日突然不幸に見舞われないとも限らない。それは‘運命’という一言で片づけられる。果して‘運命’なのだろうか?

では神仏への信心が良ければ‘運命’は良くなるのだろうか?とあれこれ思いめぐらすと、世の中には幸せな人と不幸な人が、なにか人智を超えたもので操られて分けられているのではないだろうか、と思う。釈尊は我々に何かを教えておられるように思う。

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