2010年8月26日木曜日

竹島と尖閣諸島(20100826)


竹島を韓国は実効的に支配し、「独島」と呼んでいる。尖閣諸島については、中国はその領有権を主張している。日本国民はこれらの島の領有権の真実を知りたいと思っている。しかし、政府はこらら離島の領土問題について積極的に説明しようとはしない。何故なのか?隣国との外交的な問題として、隣国に配慮しているからだろうか?素朴な疑問である。

韓国は、韓国の古文書に添付された地図には、鬱陵島と「于山島」が別個の2つの島として記述されている。それを根拠に「于山島は日本のいう松島(現在の竹島)である」としている。さらに、對馬については「日本国対馬州なり。旧(もと)、我鶏林に隷属す。いつ倭人の拠る所と為りしかを知らず。」と書かれている。

しかし、于山島は実在せず、それは鬱陵島のことである。なお、韓国内には對馬も自国の領土であると主張する人たちがいて、実際、對馬の一部は韓国人によって買い占められている。その買い占められた部分は自衛隊(‘日本国防軍’)の基地まで迫っている。

外務省はホームページで竹島の認知について説明している。しかし、殆どの日本人はこのことを知らない。マスコミも積極的に取り上げようとはしない。何故なのか?

外務省による竹島の認知に関する説明の一部を「である」調文体で以下に掲げる。



【日本における竹島の認知】

① 現在の竹島は、我が国ではかつて「松島」と呼ばれ、逆に鬱陵島が「竹島」や「磯竹島」と呼ばれていた。竹島や鬱陵島の名称については、ヨーロッパの探検家等による鬱陵島の測位の誤りにより一時的な混乱があったものの、我が国が「竹島」と「松島」の存在を古くから承知していたことは各種の地図や文献からも確認できる。例えば、経緯線を投影した刊行日本図として最も代表的な長久保赤水(ながくぼせきすい)の「改正日本輿地路程(よちろてい)全図」(1779年初版)のほか、鬱陵島と竹島を朝鮮半島と隠岐諸島との間に的確に記載している地図は多数存在している。

② 1787年、フランスの航海家ラ・ペルーズが鬱陵島に至り、これを「ダジュレー(Dagelet)島」と命名した。続いて、1789年には、イギリスの探検家コルネットも鬱陵島を発見したが、彼はこの島を「アルゴノート(Argonaut)島」と名付けた。しかし、ラ・ペルーズとコルネットが測定した鬱陵島の経緯度にはズレがあったことから、その後にヨーロッパで作成された地図には、鬱陵島があたかも別の2島であるかのように記載されることになった。

③ 1840年、長崎出島の医師シーボルトは「日本図」を作成した。彼は、隠岐島と朝鮮半島の間には西から「竹島」(現在の鬱陵島)、「松島」(現在の竹島)という2つの島があることを日本の諸文献や地図により知っていた。その一方、ヨーロッパの地図には、西から「アルゴノート島」「ダジュレー島」という2つの名称が並んでいることも知っていた。このため、彼の地図では「アルゴノート島」が「タカシマ」、「ダジュレー島」が「マツシマ」と記載されることになった。これにより、それまで一貫して「竹島」又は「磯竹島」と呼ばれてきた鬱陵島が、「松島」とも呼ばれる混乱を招くこととなった。

④ このように、我が国内では、古来の「竹島」、「松島」に関する知識と、その後に欧米から伝えられた島名が混在していましたが、その最中に「松島」を望見したとする日本人が、同島の開拓を政府に願い出た。政府は、島名の関係を明らかにするため1880(明治13)年に現地調査を行い、同請願で「松島」と称されている島が鬱陵島であることを確認した。

⑤ 以上の経緯を踏まえ、鬱陵島は「松島」と称されることとなったため、現在の竹島の名称をいかにするかが問題となった。このため、政府は島根県の意見も聴取しつつ、1905(明治38)年、これまでの名称を入れ替える形で現在の竹島を正式に「竹島」と命名した。



【韓国における竹島の認知】

① 韓国が古くから竹島を認識していたという根拠はない。例えば、韓国側は、朝鮮の古文献『三国史記』(1145年)、『世宗(せそう)実録地理誌』(1454年)や『新増東国輿地勝覧(しんぞうとうごくよちしょうらん)』(1531年)、『東国(とうごく)文献備考』(1770年)、『萬機(ばんき)要覧』(1808年)、『増補(ぞうほ)文献備考』(1908年)などの記述をもとに、「鬱陵島」と「于山島」という二つの島を古くから認知していたのであり、その「于山島」こそ、現在の竹島であると主張している。

② しかし、『三国史記』には、于山国であった鬱陵島が512年に新羅に帰属したとの記述はあるが、「于山島」に関する記述はない。また、朝鮮の他の古文献中にある「于山島」の記述には、その島には多数の人々が住み、大きな竹を産する等、竹島の実状に見合わないものがあり、むしろ、鬱陵島を想起させるものとなっている。

③ また、韓国側は、『東国文献備考』、『増補文献備考』、『萬機要覧』に引用された『輿地志(よちし)』(1656年)を根拠に、「于山島は日本のいう松島(現在の竹島)である」と主張している。これに対し、『輿地志』の本来の記述は、于山島と鬱陵島は同一の島としており、『東国文献備考』等の記述は『輿地志』から直接、正しく引用されたものではないと批判する研究もある。その研究は、『東国文献備考』等の記述は安龍福の信憑性(しんぴょうせい)の低い供述を無批判に取り入れた別の文献(『彊界考(きょうかいこう)』(『彊界誌』)、1756年)を底本にしていると指摘している。

④ なお、『新増東国輿地勝覧』に添付された地図には、鬱陵島と「于山島」が別個の2つの島として記述されている。もし、韓国側が主張するように「于山島」が竹島を示すのであれば、この島は、鬱陵島の東方に、鬱陵島よりもはるかに小さな島として描かれるはずである。しかし、この地図における「于山島」は、鬱陵島とほぼ同じ大きさで描かれ、さらには朝鮮半島と鬱陵島の間(鬱陵島の西側)に位置している等、全く実在しない島であることがわかる。

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