2010年8月12日木曜日

仏教と科学の接点を考える (20100812)


お盆という言葉の由来はサンスクリット語の「ウラバンナ」にある。ウラバンナとは逆さ吊りにされて苦しんでいるという意味だそうである。

これは釈尊の高弟の一人が神通力で既に死んでいる自分の母親が地獄で苦しんでいるのを知って、釈尊に相談したら、釈尊は「お前の母親は生前物惜しみをして人々に施さなかったから、今地獄で苦しんでいるのだ。代わりにお前が施しをしなさい。」と教えた。その高弟は釈尊の言われるとおりに施しをした。するとその母親は地獄から解放されて極楽に行った。お盆はその話に由来する行事である。

仏教で施には次の三つがあるということである。施しは布施ともいう。①財施(ざいせ)、②法施(ほうせ)、③無畏施(むいせ)。財施とは金銭・財物などの経済的な施しを与えることであり、法施とは精神的な教法の施しを与えることであり、無畏施とは安心を与えることである。(出典:『仏教の基礎知識』水野弘元著、春秋社)

何も施せなくても笑顔で相手に安心感を与えることができる。それを‘和顔施’というそうである。人は誰でも施しができるのである。金がないからとて、物がないからとて、法を教える学識がないからとて、人には心で施すことができる。ところが一般に金持ちほど金を出し渋る。貧者の一灯は、貧乏人が手持ちの僅かな金を出すことである。

釈尊は神通力で人の前世や来世を見通すことができた。件の高弟もその神通力で死んだ自分の母親が苦しんでいる様子を見た。精神の活動は無限である。意識は遠い過去から遠い未来まで延伸させることができる。修業を積んだ人はその精神活動によって神通力を身に付け、人の前世や来世を見通すことができるようになるのではないかと思う。

人の前世や来世があることを科学的に証明できないかということが男の思索のテーマである。お盆の期間、男は仏教と科学の接点を考えることにしたいと思う。

この記事を書いているとき、テレビで保険金殺人のことが報道されている。暴力団員が一人のホームレス男性を一人の認知庄女性と結婚させ、両方とも殺し保険金を騙し取った。保険金殺人事件はこれまでよく起きている。

男はそのような悪人が「あの世」で地獄の苦しみを受けることや、殺された人が前世に何かの因縁を持っていることを科学的に証明できないかと考えている。

本人の意思を確認できなくても家族が同意すれば臓器移植ができるようになった。一方、免疫の型が全く同じ子供を体外受精の手法で造ることは既に実現している。そのようにして生れた子供は‘救世主兄弟’と呼ばれ、その子供の骨髄で免疫の型が全く同じ兄弟(又は姉妹)の白血病を治療することができる。白血病だけではなく、もしその‘救世主兄弟’が死んだ時、その臓器を生まれながらにして免疫型が合致する兄弟(又は姉妹)の病気の治療に利用される。

「あの世」は今現に生きている人の「この世」であるとすれば、今や、人が人の「あの世」を左右する時代になっている。「仏教と科学の接点」を考える上で難しい問題がある。

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