2010年12月15日水曜日

年賀状・クリスマスカード (20101215)

  男は年賀状を印刷し終えて、来年はこのように年賀状のために時間をかけられないと思った。出す相手によって通信文の内容も添付する写真も変える必要がある。女房とのツーショット写真を添付するものは誰にでも出すわけにはゆかない。年賀状を出す相手に今回限りで勘弁してもらおうと「来年からはなるべく世事に無縁の暮らしをし、年賀状も出す枚数を極力減らさせて頂こうと思います。しかし私どものことにつきましては下記ブログで情報を発信し続けます。」と一文添えた。

  クリスマスカードは毎年2通出している。以前は5、6通あ男は彼の足もとにも及ばないような存在であったが、非常にフレンドリーに付きあって下さっていた。奥様とご一緒に日本に何度か来られたことがあり、男は女房と息子たち二人を連れて一緒に食事にご招待したことがあった。何れも男が会社から派遣された研修のとき知り合った日系人の方々である。彼らが日本にやってきたとき、わが家に一泊してもらった方もいる。

  あのころは男も女房も若かった。我々がアメリカで研修を受けて帰国した後、今度はアメリカから技術者たちが日本にやって来た。日系人の技術者も来たがドイツ系など白人の技術者も沢山来た。男と女房は彼らのうちアメリカで親しくしていた方々をわが家に招待したり、富士五湖や鎌倉や明治神宮や隅田川の花火大会などに連れていったりした。

  2通のクリスマスカードの相手の一人は、その頃家族付き合いをしていた方の奥さんである。ご主人は男の直属上司だった。男が前立腺がんの手術を受ける1年前に同じ手術を受け、2年後に他界した。齢は男より1歳上であった。女房は男がアメリカに出張したとき自宅に招待してくれたり、本当に良くしてくれた。夫を亡くし、数年過ぎたとき、男と女房はサンディエゴで独り暮らししている彼女の家に4日間滞在した。翌年の春、彼女は追憶の旅にやって来てわが家に10日間滞在した。今、いろいろ思い出しながらこれを書いている。彼女は男と同じ年である。時々電話でコンタクトしあっている。

  もう一人は男が若かった頃、青森の三沢で知り合った元アメリカ海軍の少佐である。その頃佐官クラスの奥さん同士の会があって、男の上司が勧めてくれて若かった女房がその会のメンバーになっていた。彼は父祖がユーゴスラビアかどこかの出で、奥さんはスペイン系であった。男がアメリカに滞在していた頃、大学生だった下の息子がやってきて、西海岸のロスアンゼルスから東海岸のヴァージニアまで飛び、そのご夫妻の家に泊らせて頂いた。その時息子は部屋を開けたお子さんの一人の部屋に泊めて貰っている。

  その彼と奥さんは介護が必要な奥さんの高齢のお母さんと同居していて、サンディエゴからアリゾナの田舎町に移り住んでいる。昨年のSeason’s Greetingsにそのお母さんを介護しているので、何処にも行けない、まだ孫はいないと書いてあった。年に一度の連絡であるがお互い家族の写真を送り合い、消息を知らせ合っている。お互い会うこともなく、もう30年以上経つ。人生はそんなものである。

    男はこの記事を書きながら、これまで日本人も含め多くの方々と知り合った、その中で本当に心に残る方々、大事な方々は指折り数える範囲内である、と思った。