2010年12月18日土曜日

映画『442日系部隊―アメリカ史上最強の陸軍』(20101218)

  男は女房と伊勢佐木町にある小さな映画館に『442日系部隊―アメリカ史上最強の陸軍』という映画を観に行った。とても感動し、涙が出た。映画館で購入した小冊子の記事を引用しながら、これを書く。

  この映画は第2次大戦時に日系人で編成された442連隊の真実と生存者の現在を描いたドキュメンタリー作品である。父母の国・日本と自分が生れた国・アメリカが戦争をするという苦悩を抱えながら、アメリカ国籍を有しているにもかかわらずアメリカの中で人種差別と戦い、ヨーロッパ戦線ではファシズムと戦い、連隊規模でアメリカ史上最多の戦死者を出した日系人部隊の兵士たちの物語である。この442連隊はアメリカ軍史上最も多くの勲章を受けた部隊として歴史に燦然と輝いている。

    アメリカ西海岸に住む約12万人の日系アメリカ人と在米日本人は全米10か所の強制収容所に入れられた。当時ハワイでは在ハワイアメリカ軍の半数を占める日系人が従軍していたが、その処遇はアメリカ軍当局の頭痛の種だった。軍当局は日系人兵士全員を密かにアメリカ本土に移送し第100大隊を結成した。この部隊の優秀さを認めた軍当局は、強制収容所からも志願者を集め日系人だけの第442部隊を創設した。この連隊が本土で厳しい訓練を受けている間、第100大隊はイタリアに上陸しドイツ軍落下傘部隊と激しい戦闘を繰り広げた。そして訓練を終えた第442連隊と合流し、多くの死傷者を出しながら「ゴーフォーブローク(当たって砕けろ)」を合言葉に地獄のヨーロッパ戦線を乗り越えていった。

    第442連隊は1944年9月、4年間もドイツ軍に占領されていたフランスの町・ブリエラを解放し、休む間もなくドイツ軍に包囲されていたテキサス大隊の救出に向い、221名の兵士の救出に成功した。第442連隊が駆けつけるまで2度にわたる救出作戦は失敗していた。第442連隊はこの戦闘で救出したテキサス大隊の兵士の数を上回る死傷者を出している。

    この連隊に所属していた第552野砲大隊は配属の変更によりドイツへ進軍し、1945年4月末、ナチスのダッハウ収容所の解放を導いた。皮肉にもアメリカ本土の強制収容所から出征した兵士たちがユダヤ人収容所を解放したという歴史的な事実はあまり公表されていない。映画のこの部分の実録映像を見て男も女房も涙が出た。

   第442連隊はフランス南部に転戦しブリエラを解放後、1945年4月末に再びイタリア戦線に送られ、北イタリアにあるドイツ軍最後の生命線ゴシックラインに送られ、そこを非常に短い時間で制圧した。ゴシックラインにはそこで戦死した日系兵士の像が建っている。

    この映画の中で442連隊の兵士として戦い、負傷しながらも生き残った元日系アメリカ人兵士14名の今と当時の回想が描かれている。回想の中である元兵士は14、5歳のドイツ軍少年兵を殺さざるを得なかった苦悩、ドイツ軍兵士の命を狙わず足を射ち、その兵士が助けを求める声を聞きながら戦闘のためその現場を撤退した後ボンという爆発音を聞いた。状況が収まりその兵士のところに行ってみると手榴弾で自分の頭部を吹き飛ばして自殺していたとう話など、今90歳前後になって初めて語った元兵士たちの話が紹介されていた。

    日系二世たちは、父母から「恥」とか「辛抱」とか「努力」など日本的な教えを受け、自らの命を差し出して日系人の名誉を勝ち取ったのである。第442連隊はワシントンで大統領に迎えられ表彰を受けた史上唯一の部隊である。彼らはわれわれ日本人の誇りである。