2010年12月29日水曜日

帰省(20101229)


  男は女房tと一緒に明日(29日)新幹線で九州に帰る。その準備でかなり前からいろいろ忙しかった。女房は帰れば「おさんどん」が待っている、と憂鬱気味である。何か楽しみがあって帰るのではなく介護が目的で帰るので、帰ってもなにもかも自分たちでやらなければならないことばかりである。男もいろいろ手伝うつもりであるが、介護と言うものはどうしても女の手がかかるものが多い。女房の実母である母(男の継母)は女房がいろいろ細々とよくやってくれるので、女房が時々帰ってくれることを期待している。女房も来年春には70歳になる。介護といっても「老老介護」である。無理をすると疲れが出る。

  しかし考えてみれば、世の中には遠くまで旅ができない人が非常に多い。介護を兼ねてとはいえ、遠い九州まで年に何度も帰ることができる人は、遠くまで旅ができない人から見れば羨ましいことである。ものは考え方次第である。あらゆる物事には表の面と裏の面とがあり、一方の面だけから物事を見、物事を考えるのは間違っている。

  ところで人の幸せは、その人が他者にどれだけ多くの喜びや幸福感や安心感などを与えたかによるものである。物事の原因が結果をもたらす。善い行いには良い報いがある。善い行いが多ければ良い報いも多い。逆に悪い行いには、決して良い報いはない。悪いことをして報酬を得ても、その人の前世から来世までの長い時間軸で見た場合、悪行は必ず罰せられる。現世にあっても「罰を被る」と言うように、罰を被る原因に気づくことになる。

  この「行い」というものは、形として目に見えるものばかりではない。因果を通じて目には見えない結果として顕れているものもある。「それが善い行いであった」と分かる人にしか分からぬものもある。わが家において男の継母である老母は遠い先祖から男の息子たちにつながるものを伝えてくれた。そのことは男にしか認識できないことである。男はそのこと故に老母をよく看る役目が与えられていると自覚している。

  ある行為を「役目」で行うと考える場合、自分の役目に気が付いていれば、どんな辛い役目でも粛々とこなして行くだろう。時にその役目が自分の死をかけたものであっても、生還を期しえないものであっても、平然としてその役目を果たすだろう。それが武士道である。幼い頃よりその心構えができている人とそうでない人とでは人生の生き方や志が違うだろう。今の時代、そんな大仰なことはないが、「役目」を自覚するとしないとでは、人々の評価も違ってくる。特に地縁血縁が濃い地域社会ではなおのことである。

  このたびお正月には孫たち一家も九州に帰ってくるというので女房の叔父・叔母たちが老母のところに沢山の餅や米や野菜などを届けてくれている。叔父・叔母たちも既に80を超えているが、姉である独り暮らしの老母のことを思っている。田舎の人たちは皆情が厚い。女房も親代わりだった叔父夫妻や姉のような叔母と厚い情を伝え合っている。

    皆、生得的に心根の優しい、思いやりがとても深い、心配りがよくできる人たちである。皆、90を超えた老母が、九州の片田舎で独り暮らしをしている様子を見て可哀そうに思っている。しかし老母は住み慣れた所で暮らす方が幸せだと思っている。

    今のところ老母は大変元気である。しかしその独り暮らしもそろそろ限界に近付きつつある。去年も入院騒ぎで老人は飛んで帰ったことがあった。