2010年12月2日木曜日

権利と義務、職務と責任(20101202)


  老人は学校教育や社会的問題に対する新聞などの論調を少しおかしいなと思っている。先日は栃木県の小学校で12歳になる女の子がいじめを苦に自殺したことについて報じられていた。今日(1日)には、小中学校の給食費の未納に関することが報じられていた。いずれも事実関係に関する記事で、一切のコメントはない。コメントを出すと新聞報道の中立性が損なわれるとでも考えているためだろうか?

  この国の政治家も官僚も教育関係者も報道機関も一般の民も「権利と義務」「職務と責任」という基本的であり普遍的な道徳観についてきちんとした観念を持っていないのだと老人は思う。誰でも考えてみれば至極当たり前の観念であると老人は思うが、「権利と義務は物事の両面である。もし権利を主張するならば、その権利を得るため義務を果たさなければならない。逆に義務を果たせばそれに関連する権利を得ることができる。」「職務には相応の責任を伴う」というこの二つの観念について、皆どう捉えているのであろうか?

  いじめ自殺のことについて老人は10月27日に「小6女の子の自殺」と題してブログに書いている。その女の子が通っていた学校の校長はその女の子の自殺といじめとは関係がないと責任を回避していたが、最近になってようやく責任を認めるようになった。その女の子がいた学級は崩壊している状況であったようである。

    学級の崩壊、女の子に対する周りのネグレクト、そういった状況が生じていないかどうか、担任の学級運営がうまく行っているかどうか、そうことを把握し、問題を事前に発見し、適切に対処して問題を解決するということは、管理者たる校長の職務であり、校長はその校長という職務遂行の対価として俸給が与えられているのである。

    故に問題が起きたとき、校長は自分の管理にどこか落ち度があったのかもしれない、とまず発言すべきであった。それが校長としての責任の一つを果たすことになるのである。それをその校長はしなかった。その女の子の自殺の原因の究明や、再発防止に至る努力を行うことは、校長が次に果たすべき責任である。最後に自らの至らなさを恥じて、校長の職を辞することもその校長の最後の責任である。  

    職務には相応の責任が伴うという普遍的な原理に、何故誰も着目しようとしないのだろうか?そういう問題を発掘し、記事にするのはジャーナリズムの義務ではないのか。何故ならジャーナリズムは「言論の自由」という権利があるからである。

    給食費未納の問題も同じである。権利ばかり主張して「対価を払う」という義務を果たさないのはどう見てもおかしい。「子どもは社会全体で育てるべきである」などと主張して対価を払わないのは、払わないことを正当化しようとする屁理屈である。

    権利を主張するならば、義務も主張すべきである。そのことを何故誰も着目しようとしないのだろうか?

    日教組は国旗や国歌に対して敬意を払おうとしない。その一方で日本国民としての権利ばかりを主張している。政治家も官僚も報道機関も「権利と義務」「職務と責任」という対立的な言葉について、きちんとした観念を持っていないから、彼らに好き勝手な行動を許している。老人はそのことをおかしいと思う人々がこの国に増えることを願っている。

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