2010年12月26日日曜日

己を知ること(20101226)


  人生の歳月を重ね高齢になれば、人は徐々に「霊的」になってゆくのだと思う。その証拠に高齢者同士顔を合わせ何か会話を交わすとき、例え相手が初対面の人であっても何故かある種の親しみを感じるものである。

  このところ男は自分自身のエネルギーが低下したと感じている。昨日、男と共に老いた女房に先日の定期健診結果が送られてきた。女房はオールA、血管年齢は75歳と少し実年齢より高いが健康そのものである。一方、老人の方はコレステロール、尿酸値、BMIとも正常値より高く、血管年齢も88歳である。エネルギーの低下はこのように数字として如実に表れている。生活習慣病になりかけている状態である。

  男はそういう状態で詩吟を詠じ、録音し、再生して自分の吟声を聴いてみる。このところ、その声に張りがないことを感じる。齢のせいだけではあるまい。健診結果の数値のとおり体調が良くないのだ。男は今後体調を良くするためいろいろ努力しようと思う。一方女房は近くのフィットネスクラブに通っていて、そこで毎月測定される体重やBMIや筋力などの数値をよくするため努力している。その成果が徐々に顕れつつある。

    女房は「お父さんもどこかスポーツクラブに通ったらどう?」と言うが、男には今のところその気はない。バスで行けば15分ぐらいのところに市のスポーツセンターがあり、そこにはいろいろなトレーニング用の器具や器械を置いてある。バスも年会費制の敬老パスがあるので交通費はかからない。その気さえあればそこで汗を流すことはできる。しかし時間をかけてそういうところで汗を流すよりも、早寝早起きし、ウオーキングをし、スロージョギングをし、発汗して無駄な脂肪を減らすことのほうが良いように思う。

    己を知ることについて、己の深層心理状態を知ることも重要である。以下は男がこれまで学んで体得した己を知るための一つの理論である。

    人の言動の9割以上は潜在的無意識に支配されている。長い人生の間、自ら意識して自らを変える努力を継続すれば、その結果が潜在意識の中に組み込まれ、人の言動に自ずと顕れる。何かと多忙な現代人は、自らを省みる余裕がない。「忙しい」という言葉の「忙」の字は「心を亡くす」と書く。歳を経て「心を亡くした」自分に気づかぬまま過ごすと、ある日取り返しのつかぬことをしてしまいかねない。

    元々生得的な無意識に加え、後天的な無意識がその人の言動を自動制御する。元々生得的な無意識は親から受け継いだものである。それはDNAに書きこまれている身体的な諸能力や諸機能、性格や知能などによるものである。後天的な無意識は生後の家庭環境、教育環境、訓練環境、社会環境などに影響を受けているものである。

    人の無意識は、自分自身では分からない。しかし自分の周囲の者からのフィードバックに注意すれば、自分の無意識がどのようなものであるか大方想像はつく。生得的な無意識は変わらないが、後天的な無意識は意識した反復練習を積み重ねるうちに獲得される。

    仏教では、生得的無意識を阿摩羅識(あまらしき、第九識、別名「無垢識」)と言い、後天的無意識を阿頼耶識(あらやしき、第八識)と言う。阿頼耶識は、「因果業報」の「業」の潜在力、習慣力としての無意識である。.第八識を良くすることが重要である。