2010年12月19日日曜日

母の命日(20101219)

  昨日18日は男が9歳の時乳がんで他界した生母の命日である。母は33歳のであった。終戦の翌年であった。終戦の年の8月、子供3人を連れて朝鮮から引き揚げてきた年、乳房に異常が見つかったとき、がんは既にかなり進行していた。既に手遅れであったと思うが入院し、両方の乳房を切除する手術を受けた。まもなく母は病院から手遅れと見放され、父の実家で死の床に伏していた。相当痛みがあったと思うが、母は9歳だった男の前では決して苦痛の様子を見せることはなかった。そればかりではなく、死の間際、いつものように「起こしておくれ」と言い、「東に向けておくれ」と言い、「御仏壇から線香を持って来ておくれ」と言い、「お父さんを呼んで来ておくれ」と言った。そのときはいつものようにがんが転移している「背中をさすっておくれ」とは言わなかった。9歳だった男は、そのときの様子を鮮明に覚えている。死の間際まで、遺して逝く自分の息子に身を以って人生の生き方というものを教えてくれたのである。

  男は朝食のときそんな話を女房にした。すると女房は自分が3歳の時、糖尿病で亡くなった父が遺した言葉を今になって思い出して、「あのときお父さんは‘M子(女房の名前)、K(女房の生母の実家)’に帰るんだよ」と言ったという。そのKで女房の祖父は、「M子、御父さんは死ぬ時何と言っていたか?」、と3歳だった女房によく聞いていたという。

  その話を初めて聞いて男は言った。「父親というものは娘の行く末がとても心配になるものだよ」と。3歳の愛娘を遺して死んでゆくとき、その娘のことを心配しない父親は殆どいない。先の大戦で戦場で散った父親たちもそうであった。妻や娘に宛てた幾多の手紙がそのことを証明している。勿論、息子たちに対しても同じ気持ちであっただろう。ただ、違うのは、息子に対しては「立派に成長してお母さんを大事にせよ、そして国の為尽くせ」と言うだろう。事実、遺された手紙にはそのような趣旨の文面が多い。

  昨日書いた『442部隊』の話もそうである。収容所に居ながら戦地に送った息子たちに「恥」「名誉」「我慢」「辛抱」「努力」という言葉を贈った。息子たちは「家族の恥にならないように」とわが命をかけて過酷な状況の中で戦った。『歴史通11月号2010』に元442部隊将校、ハワイ州選出上院議員であるダニエル・イノウエ氏が寄稿しているが、その中で彼は父親から「いいか、何をしようとも、決して家族と、お前の祖国アメリカ合衆国に不名誉なことをもたらすことはしないように、この国は私たちによくしてくれた。だから、死ななければならないのなら、名誉ある死を遂げるように」と言ったという。

    軍史上特筆される戦死者、戦傷者を出しながらアメリカ国内で日系人への偏見とも戦った。そして日系人の地位と名誉を勝ち取った。アメリカ大統領は442部隊の表彰式で「君たちは祖国アメリカのためだけでなく、日系人に対する偏見とも戦った」と第442連隊の兵士たちを称賛した。戦死した日系兵士たちは美しい記念墓地に安らかに眠っている。

    翻ってわが日本ではどうであろうか?男の叔母の夫が眠る靖国神社に、日本国の首相は日本を東京裁判で「侵略国家」とすることに成功した中国などに配慮して参拝しようとはしない。その中国はわが国の新防衛大綱について文句をつけ、一昨日のブログに書いたように沖縄・奄美を自国の領土にしようとする方針に沿って軍事力の増強を進めている。