2011年12月31日土曜日

『安岡正篤 易経講座』に学ぶ(4)(20111231)

“命とは自然の造化性、絶対性を表す。

  これは要するに人間の認識する相対的なものから言うならば、造化はそれ自体絶対的なものである。必然的なハタラキである。その自然の造化性絶対性を表すのが命(めい)である。

  人間の命も生命である。他の動物生命も同じである。しかし人間は他の生物と違って、非常に微妙な意識の世界、精神の世界というものが発現している。その意味では性命(せいめい)である・

 そしてそのハタラキはもちろん天命の一顕現(いちげんげん)であります。これは自分は何のために生れたのであるか、なぜ生れたのであるかという人間の種々の要求・疑惑より、もっともっと人間必然のハタラキである。

 そこで、命という文字思想は一度転化すると疑惑だとか違背(いはい)することの絶対許されない絶対性、必然性、命令性を持った力になる。そこで人間の中でも、自分の存在というものに絶対的意義を自得したような人のことを、文字を付して「命」(ミコト)という。

 日本では唯(ただ)の煩悩(ぼんのう)のままの人間ではなくて、自己の生活というものに絶対的意義を獲得した貴い人に、この命の一字を差し上げて「○○のミコト」といっている。

 したがって、以前にもお話し申し上げました命名というのは如何なる意味を持っているか、これで解るのであります。

 命名というのは単に名前を付することではない。偶然的に付けたのではそれは単なる付名である。そうでなくてこの名前はこの子どもにとっては、絶対的意義がある。必然価値があるとしてはじめて命名ということができる。

 造化のハタラキ、この宇宙の創造変化、絶対的作用その立場から言えば、すべては天命のハタラキである。人命はその一機能である。すべては命にあらざるはないのであります。

 だから人間がささやかな自己から出発して、学問の到達するところは、天を知り命を知って、その中から自己を発見し自得(じとく)することである。我々は先ず天命というものをよく身体で把握しなければ、易学にはならないのであります。(以上『安岡正篤 易経講座』より引用。)

 神武天皇は、『古事記』では神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと)とされている。神武天皇は日本の国体の礎となられたお方である。日本神話では神武天皇は庚午年11日(紀元前711213?)から 神武天皇76[1]311日(紀元前58549?))までの間生きておられた方で、初代天皇として即位された日は辛酉の歳(神武天皇元年・紀元前660年)の正月(西暦紀元前660211日)とされている。

 歴史観を持たない人々、反日的思想の人々は、毎年211日の建国記念日になると騒ぐ。神武天皇以来代々の天皇は古神道を護持してこられ、今上天皇も宮中でその行法による宮中祭祀を執り行っておられるという。日本国民にとって大変有り難いことである。

日本は一日でも早く「教育勅語」を復活させ、広く一般に日本神話を大事にする正しい歴史観を広め、日本の精神を復興させなければならないと思う。       (続く)