2011年12月30日金曜日

『安岡正篤 易経講座』に学ぶ(3)(20111230)

  “今朝の新聞にも湯川博士がハイゼンベルグなどを取り上げて素粒子の説明をしておるが、・・(中略)・・この偉大な宇宙のエネルギーは極めて微妙な素粒子の中に含まれている。これを次第に追及していくと、この偉大なエネルギーの含まっている一番の極限、即ちウルマテリーといったものに到達するかもしれないと論じています。ハイゼンベルグは今からそう考えている。

 このウルマテリーを易で申せば文字通り太極(たいきょく)であります。・・(中略)・・

 これをマクロコスミックに見れば、近代の天文学は・・(中略)・・次第に太極というものに近づかんとしつつある。そうしてマクロコスミックの点から申しても、要するに宇宙、人生はもちろん、その一部分というものは実は偉大な創造であり変化である。・・(中略)・・

 宇宙を営む偉大な力が波動、活動しつつ、相互転換性を表しているのを天という。天というのはその様に、偉大な創造であり変化である。この宇宙人生が無限の創造であり変化であるということは日本民族、支那民族、インド民族総じて東洋民族に於いて非常に早くから体験的に追及され、非常な叡智をもって認識されつつあった。

この造化というものを、人間はこういうこの感覚を備えた体でありますから、これを出来るだけ感覚的に把握し、実現しようとする本能を持っておる。この偉大な営みを象徴するのは仰いでみる天に及ぶものはない。

そこでこの天という言葉は、人間が体験的に感覚的に把握し、象徴した造化の意味に外(ほか)ならない。偉大なる創造変化の意味、これを段々進めて次第に人格的に把握致しまして、やがてこれを宇宙の極限、太極、これを天帝、上帝というように把握する。

本来は天というものは必ずしも西洋の宗教的思想のように擬人的に把握しないで、非常に思索的体験的に造化性というものを把握している。これは西洋文化と東洋文化とを表す一つの特徴を為すものです。そういう点では西洋は擬人的に思っておる。

だから天とうものは第一に何かというと、偉大な包容力を表しておる。無限の包容力を表しておる。その次は無限の変化性を表しておる。これに反するものは地でありまして、有限であり固定である。天はこれに反して無限であり創造、包容であり限りなき変化である。”

“ハイゼンベルグ(Werner Karl Heisenberg)。ドイツ南部ヴェルツブルグ生れ(一九〇一~一九七六)。理論物理学者。マトリックス力学及び不確定性原理を発見し、量子力学の確立に貢献。一九三二年、三十一歳のときノーベル物理学賞を受賞。インドの詩聖タゴールに東洋哲学を学び、その内容と量子力学の類似性に気づき、驚嘆したという逸話がある。”
“ウルマテリー【独】言物質”
男は、人の命も、地上のあらゆる生物の命も宇宙の生命の一部であると思っている。宇宙は無限の一つの生命体であると思っている。この宇宙は137億年前、10のマイナス43乗秒の時間、10のマイナス33乗センチメートルの大きさの所、つまり「無」からから始まった。人間を含むあらゆる生物の命は有限であり、しかも同根であるが、宇宙の営みは無限である。有限の生物は無限の宇宙の一部である。人は限りある人生を悲しむ必要はない、宇宙の営みにまかせて安心して正しく生き、そして死ねばよいと男は思っている。(続く)