2012年7月30日月曜日


シナ(中国)は何故日本に敵対するのか(20120730)

孔子75代目直系の子孫だという孔 という人が書いた本『中国人と中国系人』という本に次のことが書かれている。雲南省という項から“”で引用する。
“多民族の辺境稲作民 「少数民族の宝庫」といわれ、二十四以上の民族が住む。古代から近世にかけて、古タイ族の天地であった。この東アジアの稲作の祖ともいうべき人びとは、日本人に顔が似ているところから、日本人の先祖の一派ではないかという仮説もある。・・(中略)・・漢民族が人口の六十八・三パーセントを占め、残り三十一・七パーセントは少数民族。イ族、ペー族、タイ族、ハニ族などである。

雲南省が中国の版図にはいるのは、はるか後世の元の時代になってからで、漢民族の武力ではどうにもならなかったが、匈奴の末裔であるモンゴル帝国の手によって中国領になった。・・(中略)・・「漢倭奴国王」という金印が、日本の九州志賀島で発見されたが、蛇蛛をもつ金印で滇(てん)(雲南の古称)と倭は結ばれたことになる。

少数民族の天地雲南は、いまでこそ辺境秘境の地とされるが、往時は興亡をくり返した中国歴代の王朝にとって豊かな穀倉地帯であったとともに、通商における重要な拠点でもあった。”

(てん)王国と古代日本とは考古学遺跡の出土品から関係があったことが分ってきている。そのことは安田喜憲著『古代日本のルーツ 長江文明の謎』(青春出版社)に書かれている。(てん)王国は紀元前400年から紀元後100年くらいまで栄えていたが、漢民族の圧迫を受け、おそらく混血が進み、その王国の独自性がなくなったのであろう。今、雲南省で圧倒的多数を占める漢民族は古代の漢民族と混血した民族であろう。『中国人と中国系人』という本には、雲南省人の性格・身体的特徴・タイ族ペー族など少数民族の民族性のことなどが書かれている。

2800年から3000年前、気候の寒冷化の影響で、華北から狩猟・畑作の民であった漢族が南下してきて、長江流域で水稲農耕を行っていたY染色体O3亜型の集団が住む地域に侵略してきた。漢族の圧迫を受けたY染色体O亜型の集団はシナ(中国)南部やその南の山岳地帯、今の雲南省や台湾などに追いやられた。

その中でY染色体O2bの集団の一部は、山東半島を経由して朝鮮半島南部から九州に、或いは長江流域から直接九州に家族単位で移動し、先住の縄文人と混血していった 弥生時代、九州や西日本に水稲農耕技術を伝えたのは、このO2b型集団であった。彼らが渡来系弥生人であり、先住の圧倒的多数の縄文人と混血した人々が、いわゆる「倭人」である。倭人は九州・西日本に住んでいたが、朝鮮南部にも住んでいた。しかし朝鮮半島の人びとの遺伝子には殆どないミトコンドリア遺伝子M7aと、朝鮮半島の人びとには殆どないY染色体遺伝子D2及びC1が日本人にはある。

 日本人の祖先は縄文人と渡来系弥生人の混血である。長江流域から渡ってきた人々の中には当時の漢民族から圧迫を受けて雲南省の山間部に逃れた苗族を先祖の一派とする人々も混じっていた可能性がある。人種的に日本人は混血種であり、東アジアで特殊である。

 一口に「中国人」といっても古代のシナ(中国)人と、現代のシナ(中国)人とは同じではない。現代のシナ(中国)人は日本人同様、混血したことによりに多様な性格・身体的形質・能力などを持っている「隣人」である。ただ両国の間で根本的に違うのは、一方は興亡をくり返してきた王朝、現在でも「中国共産党王朝」とでも言うべき王朝の国であるのに対し、他方、日本には万世一系の天皇がいて、その天皇は古代を除いて実際の政治には関わらず政治は別の主体が行う国であるということである。

現在でも進行中であるが、シナ(中国)の歴代王朝は周辺の多民族の国々を初めは「自治領」にし、その領内に年数をかけて漢民族の人びとを入植させ、その「自治領」を次第に漢民族化してゆくという「文化」、それも「体外遺伝子」ともいうべき「文化」をもって行動している。その部分を日本は十分警戒しなければならない。「日出る国の天子、日没する国の天子に書を致す、恙なきや?」という国書を当時のシナ(中国)王朝に届けた日本は、聖徳太子の昔からシナ(中国)の王朝には決して屈しなかった国である。